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連載小説 恋はお初天神から

「お初天神商店街曽根崎心中物語」

作:観朝 華乃子(みあさ かのこ)

<第二章> 初音と徳兵衛

洋平が、初めて「こてこて」を訪れたその日の夕方、カウンターの一番奥に、五十代半ばの中年が、手酌でビールを飲んでいる姿があった。その隣には、明るめの茶色い肩までの髪をくるくると巻いて、胸元の開いた、キャミソールに目の粗い薄いニットを羽織っただけの、若い女性がいた。丈の短いパンツで素足をさらしており、安っぽい高いヒールのサンダルを履いていた。まだ、少し肌寒い季節だったが薄着だった。
その女性は、昼間、大将が洋平に紹介しようと考えていた初音というキャバクラで生計を立てる二十歳の少女だった。隣の男性と親しげに話をしていた。
「僕ね、学部長に推薦されたんだよね。みんながね、『然るべき人に、やはり学部長をお願いしたい』なんて、言うからね、僕は、『僕は、然るべき人間なんかではなくて、叱られるべき人間なんです』って断ったんだよね」
男性は、初音に自分の話を、さも他人事のように話し聞かせた。口調は丁寧で穏やかで、小さく強い芯のある低い声だった。
「教授、せっかくの出世の機会やのにあほやなあ」
初音は、そう言うと、大きな口を開けて楽しそうに笑った。そして、楽しいと同時に、なぜか嬉しくも思った。初音は、なんとなく権力にしがみつく大人を好きでなかったからだ。
教授は、初音の反応に満足して、自分も楽しそうに笑った。教授は飄々(ひょうひょう)として、学長になるよりも、学長を下らない駄洒落(だじゃれ)で断るその行為自体が自分の好むところであって、それ以上深い執着もなかった。むしろ、学長などという煩わしい(わずらわしい)権力は、あるよりないほうがよい、象牙(ぞうげ)製のつるつるした箸のような扱いにくい代物であるとすら思っていた。
その時、初音の目の前の鉄板に大将が焼きそばを載せた。熱く熱した鉄板が、水を弾く音がするのと同時に、湯気と油粒が入り混じったような白い蒸気が上がった。
「初音ちゃん、今日、初音ちゃんがずっと探しとった、清兵衛さんを見つけたで」
「大将、それほんま?どんな人?でも、清兵衛さんちゃうで、徳兵衛さんやで。『たそがれ清兵衛』とごっちゃになってるやろ」
初音は、大将の誤りをすかさず訂正した。初音にとって徳兵衛とは特別なのだ。
「どっちでもええねん。利口そうで、おとなしゅうてな、これまで付きおうた徳兵衛さんとは、全然ちゃうで。なんと言ってもまじめそうやねん」
大将は、得意そうだった。
「髪の毛は黒い?」
初音は、さらに訊き返した。
「黒いで、まっ黒やで。今どきにしちゃ珍しいんちゃうか」
大将は、自信満々に初音に返した。
「それやったら、期待できるかもしれんなあ」
初音は、首をなだれて、少し考え事をしているようだった。
「大将は、あてにならんから、私が本当に、初音ちゃんの徳兵衛さんかどうか見定めてあげるよ」
教授は、柔らかい笑顔で、初音に語りかけた。
教授は、自分の人生は、これから坦々と暮らして、劇的なことなど望まず、期待もしていなかった。劇的とは、喩える(たとえる)なら、五十歳にしての大恋愛や、論文が全国規模で評価を得ることや、タレント教授になって鼻の下を伸ばしながら、テレビに出ることやら、一般の人々が羨ましがると憶測されるものだ。そんなものは、十二単(じゅうにひとえ)で暮らすみたく豪華で目立つんだろうけど、トイレに行くのもままならず、面倒くさいだけだと思っていた。むしろ、自分の人生は、とうの昔に閉じて、他人の幸福や、他人の人生が良い方向に華やかに変わることに手を貸したいという願いが、それも僅かにだけあるだけだった。人が幸せそうにしている姿がこの店には多くあった。
だから、ここで一人、「こてこて」の店内の様子を、新喜劇(吉本新喜劇)を観るみたいに、食事を取りながら、新聞を読みながら鑑賞したり、ある時は本気で見入ったり、また或る時は新喜劇に参加することが、比較的有意義に感じられた。
教授は、初音に対して、自分の娘に対するような情をかけていた。正直で、先のことなど全く考えず、行き当たりばったりで、今だけを生きていて、楽しいことがあったら辛いことはすぐ忘れてしまう、そんな初音が幸せになることを望んでいた。大将も教授も、その他の初音を良く知る馴染みの客は、なぜかみんな初音のことを気に掛けていた。
「初音ちゃんの、今までの徳兵衛さんは、ひどかったなあ」
大将は、つい口を滑らせてしまった。すると、初音は、葬ったはずの辛い過去が蘇り、急に暗くなって、
「四つ前が一番ひどかったなあ。全然徳兵衛さんちゃうかったわ。むしろ、敵役の九平次みたいやったわ」
そう言いながら、初音は、一つ前、二つ前の徳兵衛さん、三つ前の徳兵衛さんを思い出して、涙腺が緩みだして、涙がこぼれそうになっていた。
初音は、実家のある和歌山の高校を卒業して、大阪で一人暮らしを始め、専門学校へ通っていた。専門学校の友達に誘われて、アルバイトとしてキャバクラで働くことにして、そのまま専門学校を卒業しても、就職せず、キャバクラで働き続けている。
元々、規則正しく、同じ時間に学校へ行くのも億劫(おっくう)で、確固たる意志も、夢もなく、重労働や過酷な社会生活に耐え得るような、逞しさ(たくましさ)もなく、流されるように生きて、辿り着いただけにすぎなかった。でも、初音はこの生き方自体は嫌いではなかった。
やりたい仕事もなく、社会的地位にも興味がなくて、毎日、好きな人と好きなことをして、先が全く見えなくて、真っ暗な感じがして、それが、好きだった。
先ほどから皆が口にする徳兵衛さんとは、高校時代に初音が演劇部で演じた題目で近松門左衛門の「曽根崎心中」の主役の徳兵衛のことである。ヒロインお初と名前が重なることもあり、無理に演目にして、自分から、主役を買って出、皆を説得し、大成功したのだった。初音は、人生で情熱を傾け、血が湧くような感動をしたのは、後にも先にも、その時だけだった。自らの意思で提案をして行動を起こしたこと自体、生まれて初めての体験だった。そして、初音は、高校時代にお初を演じた感動が忘れられず、いつか自分も徳兵衛さんみたいな人が現れて、真っ暗な未来に焔(ひ)を灯してくれると信じていた。
初音は、手元の腕時計を見た。
「あっもう出勤の時間や。大将お勘定」
「初音ちゃん、キャバクラで働かんでも、うちの店で働いたらええんちゃうん?」
大将は、初音のことが、心配なのだ。
「そういう訳にはいかんねん。徳兵衛さんが、現れた時にキャバクラで働いているっていうことに意味があるねん。刹那(せつな)な世界に生きてる女っていうのに惚れてもらわなあかんねん。お好み焼き焼いてるウチ(私の意味)に惚れるような徳兵衛なんか要らんねん」
そういうと、初音は急いで店を出て行った。大将が紹介してくれる徳兵衛さんに期待し、いつもより足取りが軽かった。
「初音ちゃんて、なんとなく変わっとるなあ。わし、初音ちゃんに幸せになってもらいたいねん。なんでかしらんけど、初音ちゃんのこと娘とか姪っ子とか血が繋がってるみたいな、そんな感じやねん」
大将は、教授に、そう独り言のようにつぶやいた。
「あの子綿菓子みたいやもんねえ。ふわふわ、ふらふらしとって。打たれても、あんまりこたえんそうだけど、溶けて消えてしまいそうやものね。霧みたいなみずみずしい奇麗さとは、また違うのな。消えても、消えた場所に砂糖が残って、みんなでちょっと掃除せなあかん感じやね」
教授は、上手く初音を表現できて、またしても満足気だった。
「小学生の書いた詩みたいな喩え(たとえ)やなあ」
大将と教授は楽しそうに笑った。
教授は、その後は静かにお好み焼きを食べて、ビール一本空けると、店を後にした。

洋平が店を訪れることになっている木曜日が来た。大将は、洋平が店にくるか心配だった。初音は、午後四時から、「こてこて」で待ちわびていた。
「初音ちゃん、ちょっと期待しすぎちゃうか。わし、ちょっと責任持たれんで」
大将は、我ながら、自分のおせっかいを後悔した。これで、お互い興味が湧き合わんで、気まずい沈黙が続いて、そう考えると、胃の辺りが苦しくなった。大将は、気づけば、キャベツを普段の二倍千切りにしていた。こんなにお好み焼き捌ける(はける)かいな。あかんわ、商売人失格やわ。と、大将は動揺を抑え切れなかった。
この時間は、一番客が少ないから、大将は下ごしらえや、昼に予想以上に売れて、切れてしまった食材を仕入れなくてはならなかった。この時間になったら、もう店に手伝いに来るはずの大将の奥さんもまだ来ない。それなのに、初音は、大将に徳兵衛さんの話ばかりしてくる。そこへ、駄菓子屋の店主が現れた。駄菓子屋の店主は、天然パーマの髪を短く刈り上げているから、パンチパーマのようにも見え、普段からアロハシャツを着ているから、昭和のチンピラのようだった。
「ケンちゃん助かったわ。初音ちゃんの相手したって。わし、イカとモヤシと節を仕入れなあかんねん」
大将は、やっと出かけられると思って、ケンちゃんに初音の相手を頼んだ。
「初音ちゃんどうしたん?」
ケンちゃんが、初音に尋ねた。
「大したことないねん。大将が、徳兵衛さんを紹介してくれるって言うねん」
初音は、テーブルで頬杖をついていた。気だるそうで虚ろに見えた。
「ほんま、大したことない話やな。それだけ?」
駄菓子屋のケンちゃんは、いい暇つぶしを見つけて嬉々(きき)としながらも、事も無げに言った。
「これまで、徳兵衛さんと思っていろんな人と付き合ったけど、結構痛い目見てきたしなあ」
初音は、ポツリと寂しそうに呟いた。
「でも、前付きあっとったんって、アメリカ人やろ、どう考えても徳兵衛さんちゃう思うけどなあ」
ケンちゃんは、可笑しくて噴出しそうだった。初音は、ケンちゃんが、からかっていることに気付かず、そのまま、会話を続けていた。
「普通にアメリカ帰ったしなあ」
初音は、さらにトーンを下げて、呟いた。
「そらアメリカ人やもん。帰るやろ。その前は、なんやったっけ。大阪駅前でティッシュ配る兄ちゃんやったなあ。初音ちゃんの店のティッシュを配っとったんが出会いやったっけ」
ケンちゃんは、初音が、元気がなくなっていってるのに、まだまだ掘り返すのだった。
「そうそう。インド行ったんよね。なんやマリファナのええ入手ルート掴んだって。連絡無いんよね」
初音は、二つ前の徳兵衛さんに関しては、吹っ切れたのか、言葉に悲しみが含まれていない。ケンちゃんは、初音のその様子を確認すると、遠慮ない調子で話し出した。
「あの兄ちゃん、目が彼岸むいとったもんなあ。薬品使うてでも、彼岸にトリップしたい系やで。今頃、ガンジス川に沈んどるんやろうな。徳兵衛さん探してるんやったら、もう少し、良家で真面目な人選ばな。人は、見た目で判断してええ場合も多々あるねんで。なんや、髪は金髪やわ。体中ピアスだらけやわ。刺青だらけやわ。薬しすぎて、痩せこけて、目くぼんで、どうみても徳兵衛さんちゃうやん。だいたいなあ、この犯罪が氾濫しとる日本で、町見渡してみい、善良そうで、よさそうな人ばかりやのに、あの兄ちゃんの風貌。あの兄ちゃんが、犯罪に手を染めんで、どの善良そうな市民が犯罪者やねん。
ここ来ても、一人前もよう食べられんかったやん。初音ちゃんまで、シャブ漬けなるか思て、おっちゃんめっちゃ心配やってんで。ほんま、早いこと消えてくれて良かったわ。勝手に消えてくれんかったら、おっちゃん、知り合いのやくざに頼んで、淀川にでも沈めてもらおうか思うとってん。あの、兄ちゃんどのみち、河に沈む運命やったんやで」
ケンちゃんは、長い台詞の最中、初音の表情を観察しつつ、初音が途中から、急に落ち込みだしたから、良心がチクチクしてきて、話の腰を折るべきか、折らざるべきか、迷ったが、良心よりもウケを取ってしまった。しかし、二人は固まったまま、言葉を発するでもなく、笑うでもなかった。大将も出かけるはずが、ケンちゃんが調子に乗って、毒舌で初音をネタにして饒舌(じょうぜつ)を気取るものだから、つい聞き入ってしまった。初音は、すっかり暗くなってしまった。
「でも、髪の毛黒いらしいねん。今度の徳兵衛さん」
初音は、そう言うと、やっぱり嬉しそうにするのだった。大将は、ほっとした。大将は、初音のケンちゃんの厭味な毒舌を受け止めて、流すやさしさや、重い空気を、身を削ることで軽くする思いやりが好きなのだ。
「うまくいけばええなあ。おっちゃんも応援するで。ちょっと店閉めてくるわ。また、あとで来るから」
そう言って、ケンちゃんは、場を濁すだけ濁して、さっさと「こてこて」を後にするのだった。
大将は、初音の様子を汲んで、
「ケンちゃん、ちょっと言い過ぎやな。あの金髪の兄ちゃん、根はええ子やったと、わし思ってるで。インドで、我を忘れるほど楽しんでるだけやさかいに。気にせんときや。昔のことは、もう忘れや。いろいろ御託並べたかて、今の一瞬だけが全部やで。過去は確かにあったかもしれんけど、もう消えてのうなってしまってるねんから」
と、初音を元気付けた。
それから、仕事のことを思い出して、ガスの元栓を締め、裏口の鍵を確認し、冷蔵庫の中の食材を確認しながら、店の入り口の方へ向かっていった。
「わし、15分ほど、買出し行くから、悪いけど、留守番しといてくれるか」
と店を後にした。
「いってらっしゃい」
初音のその声が言い終わらないうちに、扉は閉まって、大将は出て行ってしまった。
一人で残された初音は、大人達がいなくなった隙に、たばこを吸い始めた。
初音は、二十歳の誕生日が過ぎたところだった。この日もいつも通り、背中やら、腿やらを完全に露出していた。シマウマ柄の襟元がやたらと開いたVネックに、短いゴールドのスカートを履き、細長い素足にサンダルだった。髪は、いつも通り、くるくる巻きにしていた。腕には、客にもらった、本物か定かではなかったが、高級ブランドの腕時計をして、丸顔で童顔の顔には、厚く化粧をしていた。脇には、質流れのブランドのロゴを全面に押し出したような柄の、本物だろうと思われる高級バッグを携えていた。初音は、バッグに手をつっこんで、ポーチから、化粧道具を取り出し、厚い化粧にさらに、粉を載せて、目の周りに金粉を塗し(まぶし)ていた。
店内のテレビはつけっぱなしで、関西弁の情報番組が流されていた。
初音は、あと少しすると、劇的に人生が変化して、これまで、散々痛い目にあってきた初音をようやく本物の徳兵衛さんが助け出してくれるかもしれない、と淡い期待を寄せていた。
それから一人でテレビのほうをみて時間が経つのをじっと待っていた。その間にも、かばんの中の携帯電話が、振動してピカピカと光っていたので、初音は電源を切り、テレビの方を見つめたまま、曽根崎心中の題目を演じた頃やら、徳兵衛さんを思い浮かべて、過去と未来の思い出との空想に浸った。
こんな風に時間が経つのを待つのは、久しぶりのことだった。普段なら、少しの待ち時間にでも、誰かに電話したり、携帯からインターネットに接続してみたりするのだが、この日は、そんな気にはとてもなれなかった。落ち着かず、手持ち無沙汰になり、二本目のたばこに火を点けた。
10分ほど経過した時だった。時刻は、午後5時少し前だった。店の扉を開ける音がした。初音は、とっさに扉の方に顔を向け、来客を見つめた。
一目で初音は、この人が徳兵衛さんだと直感した。綺麗な澄み切ったまっすぐな目をしているように初音には感じられ、一瞬で心臓を見えぬ手で捕らえられたような感覚に陥った。心臓の輪郭を感じるほどに、身体から心臓だけが、電気を帯びたように浮き出るようだった。運命の出会いなのだと思った。
初音は、洋平に向かって、
「今、大将は買出しに行ってるから、空いてる席に座って」
そう言うと、アルバイトを装い、洋平に水とお絞りを出し、メニューを手渡して、間近で洋平を見つめた。
洋平は、初音がじろじろ見るものだから、不快感を感じ、気分を害した。なんだこの派手な女は、派手好みのこの女からみれば、確かに、地味で冴えない風貌かもしれぬが、奇異なものを見るような目つきは一体?そう洋平は思い、
「やっぱり、帰ります」
そう言うと、店を後にしようと、立ち上がり、入り口に向かおうとした。
すると、初音は、
「行かんといて、徳兵衛さん」
と声を上げ、後ろから洋平の腕をつかんだ。
洋平は、あまりの出来事に、状況を把握できず抵抗することはせず、そのまま、椅子に腰を下ろした。
むしろ初音のほうが、若さと派手さを差し引いてもおつりが出るくらいの、行き過ぎた行動を悔やみ、
「ごめんなさい」
と洋平に頭を下げて、自分の鞄をつかみとって、走って店を出て行ってしまった。
洋平は、誰もいない店内で途方に暮れ、どうすることもできず、大将の帰りを待つよりほかなかった。