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連載小説 恋はお初天神から

「お初天神商店街曽根崎心中物語」

作:観朝 華乃子(みあさ かのこ)

<第四章> 初陣

文楽座公演への初デートの日は、その次の週だった。初音は、待ち合わせの時間よりずいぶん早く到着して、何度も、化粧を直しに、トイレを行ったり来たりしていた。約束の10分前からは、国立文楽劇場入り口で待ちわびていた。ようやく、トイレと劇場の入り口の往復運動は停止できたが、どことなく、落ち着きがなかった。
初音は、教授のアドバイスを受けて、少し清楚な服装だった。
『文楽座公演に、いかにもキャバクラ嬢っていう服装だと、TPO(時間、場所、場合に応じた服装の使い分け)に反すると思うから、普段どおりの服はやめたほうがいいと思うよ』
というものだった。
初音は、TPOの意味さえも分からず、客のエリート商社マンに、TPOの意味を分かりやすく説明してらおうとすると、アルファベット三文字だったことは、覚えていたのだが、PKOなのか、PTAなのかすっかり忘れてしまって、事の次第を順序立てて説明し、商社マンから『きっとTPOのことだね』という解釈を受けることが出来、さらに、同伴の日に服まで選んでもらう始末であった。
黄色と白と灰色のくすんだ花柄の長袖のワンピースに、白くて割としっかりとした造りのパンプスを履いて、髪もわざわざ美容院でお嬢様風にあしらってもらって、遠目だと、初音には見えなかった。一点だけ、普段身に着けている大きな石やらプラスチックやら金具やらが、色とりどりにあしらわれたペンダントを首からぶら下げていた。お店の小(ちい)ママ洋子の『自分を白百合と思い込んで、壁にもたれたりもせず、それでいて、体の曲線はS型の滑らかな曲線を描くように』というアドバイスを、思い出し、右足を前に軽くクロスしてみた。するとバランスが悪くなって、緊張と重なって、振動し始めた。初音は、クロスやったら、Xやんと思い、足を元の位置に戻した。Sって一体どういう意味なのか、ちゃんと聞いてこればよかったと思い、壁にもたれないように気をつけるだけにして、手に「人」を三回書いて飲み込んだ(※手のひらに「人」を三回かいて飲み込むと緊張が解けるというおまじないがある)。
初音が、30分前から文楽座の公演が行われる小ホールの前で待っていたその頃、洋平は、ようやく、最寄(もより)のJR宝塚駅に到着したところだった。その間、洋平は、一応、待ち合わせ場所へ足は進めながらも、初音と会うことをためらっていた。それは、もちろん受験勉強に差し障る危険性を感じていたからだった。このまま、キャバクラ女の虜になって骨抜きにされて―。そもそも、洋平は、女という性別の人間が嫌いだった。女というものはアダムの曲がった肋骨からやむを得ず作られた代物で、男として生まれたからには、女という曲がりきった生き物を愛し、養わなくてはならぬことに一種の不条理さえ感じていた。洋平は、中学の頃に読んだゲーテの詩<女は曲がった肋骨で作られた。神もそれを真っ直ぐにはなし得なかった。それを曲げようとすれば、折れ、捨て置けば、なお曲がる。>に深いシンパシー(※共鳴、共感、同情)を感じ、それ以来、よく愛吟(あいぎん)していた。しかし、洋平の心臓は大阪駅で地下鉄に乗り換え、日本橋に近づくにつれて、普段よりも高鳴り、キャバクラ女の魔力にかかり始めているのか、鮮明に打ち出していた受験と自分の将来の目標設定に霧が立ちこめてきた。そして、宝塚付近では、大学受験の志を砕かれることを怖れ、自宅へ戻れと警鐘を鳴らしていた理性が、キャバクラ女が醸し出す酒池肉林の誘惑に惑わされ、警鐘を鳴らす手を止めて、居眠りを始めたようだった。洋平の中のキャバクラ女は、初音ではなく、もはや妖怪であった。
そして、待ち合わせ時間の午後4時の5分前に、洋平と初音は再会を果たした。
洋平は、最初、初音かどうかも分からなくて、一見女子大生風だったので、驚いた。そして、妖怪キャバクラ女の呪縛から解き放たれて行き、自分の妄想の危うさを反省するのだった。洋平は深呼吸をして、改めて、今日の文楽座公演デートは、ただの息抜きと気晴らしのようなもので、初音に深入りするまいという固い意志を再確認した。しかし、わざわざ清楚に身なりを整え、初陣に臨む態度。洋平を見た瞬間の少女マンガのように、顔面からぱーっと花弁が飛び散るような初音の幸せそうな様子を見ると、頭で心を制御することはできず、既に、初音に惹かれ始めている自分の心を自覚せずにはいられなかった。
洋平は、初音の入場券も一緒に買って、一枚を初音に手渡した。
「洋平君、ありがとう」
初音は、嬉しそうに、入場券を受け取り、笑顔を見せた。
二人は、間に人一人分くらいの距離を保ちながら、会場に入っていった。平日だったこともあり、洋平が思ったよりも空いていた。年配者に混ざりながら、若い二人が一緒に鑑賞に来ている姿は、ほほえましいものがあったのか、突然、初老の女性が初音に話しかけてきた。
「地方公演が終わって、久しぶりに大阪に帰ってきたなあ」
そういうと、女性は、大きなナイロン製の薄手の鞄の中をごそごそと探りながら、
「姉ちゃん、お菓子要る?」
と、初音にそのまま話し続けた。
初音は鞄の中を一緒に覗いていた。鞄の中には、いろいろ入っていて、みかんやら、三角に畳んだスーパーの袋やら、手袋やら、めがねケースも二個入っていた。おせんべいも入っていたが、
「おせんべいは、こういう場所では食べたらあかんからなあ、バリバリうるさいやろ。飴あげるわ。舐めて食べるんやで、噛んで食べたら、おばちゃん怒るで」
と言って、キシリトールのミント飴を5つくれた。
「おばちゃんありがとう。おばちゃんの鞄、めっちゃたくさん入って便利そうやな」
「そうやろ。これ、レジャーとかでお弁当入れて行くやろ、そしたら、ゴザにもなるねんで」
と、話が長くなりそうだったので、洋平は、ジュースを買いに行った。洋平は、初音みたいな女の子には、出会ったことがなかった。住んでいる地域が、少しずれるだけで、人の性格というのは、ここまで変わるものなのか、としみじみ思った。洋平は、うすうす狭い世界で限定された、世界観を大人から押し付けられているのだろうと思っていたが、テレビで観る大阪のおばちゃんも実在していて、新鮮だった。実のところ洋平は、典型的な大阪のおばちゃん風な人物を、宝塚近辺で見かけたことが一度もないので、電車で15分の距離にそんなおばちゃんが多勢存在するなんていうことは有り得ないと思っていた。かなり本気で、大阪のおばちゃんとは、関西ローカルテレビ局が創り出したやらせの一環なのかと思っていたのだ。お好み焼き屋『こてこて』で出会った人々といい、洋平は、行動範囲が大阪まで広がっただけで、世界ってほんとに広がるのだなあ。それが、東京まで足を伸ばしてみたり、海外旅行などをしてみたりすると、もっともっとびっくりするようなことが沢山あるのだろうな、18歳の洋平はそんな風に世界を捉えていた。洋平は、もっと広い世界で、たくさんの人に出会って、自分の世界をもっと広く広げたいと切に願うのであった。我に返った洋平は、自動販売機の前に居て、思考が中国辺りまで飛んでいたので、目の前の風景に物足りなさを覚えるのであった。
そうして、洋平は、コーラを2つ買うと、会場に向かって行った。初音は、洋平のことが心配で入り口の方をずっと見つめていた。洋平が席に戻ると、嬉しそうに洋平に笑顔を見せた。会場は暗くなり、曽根崎心中の幕が開けた。

洋平は、人形浄瑠璃を観るのは初めてだった。正直あまり期待はしていなかったが、たちまち洋平は曽根崎心中の世界に入り込み、その世界に入り込むにつれ、人形に命が吹き込まれたように感じられた。演劇や映画、小説は、映像や文字を媒介に人の脳に虚構の世界を創り出す。人形は、洋平の脳に広げられた虚構の世界では、人格を持った生身の一固体の生命体に変容していた。
近松門左衛門の創り出したリアリティ溢れる心中の場面は、圧巻であった。刃物を喉に突き刺すシーンは、生々しく、生ぬるい血が洋平の体内に入り込み、血の触感が洋平の胃を撫でていった。
男女の情愛は、火曜サスペンスで昔から観るにつけ、どろどろして、洋平には理解に苦しむものであったが、意外にも、人形浄瑠璃で、表現する曽根崎心中の世話物は、現実世界の無駄な白けた部分を排除してあるせいか、粘度が高く、洋平にも、なぜお初と徳兵衛が死を決意するほど、情愛の絆が深まったかが鮮明に理解できた。
曽根崎心中の演目が終わり、惜しみない拍手で幕を閉じた。隣を見ると、初音が、またしても、泣いて化粧が崩れていた。洋平は、出会った時より更に、ひどい崩れように今度ばかりは、可笑しくなって、
「初音ちゃん、また化粧が崩れてるよ。人の目に付く前に早く直しておいで」
と、初音にポケットティッシュを手渡した。
初音は、そのティッシュで鼻水を拭いて、
「洋平君ありがとう。トイレ行って来るわ。ロビーで待っててな」
そう言って、入り口で一旦別れた。初音は、トイレの鏡の前で驚きのあまり悲鳴を上げそうになるほどにひどい有様だった。マスカラが取れて、頬に散らばっていたのだった。
「ごま斑(ふ)あざらしやな」
と、一人呟き、洋平にもらったティッシュでマスカラを取り払っていた。
外で洋平は、初音を待っている最中も、黒く墨を振ったような初音を思い出して、
「ほんとにダルメシアン(黒の斑点のある犬の種類)みたいだな」
と、思い出して笑っていた。
洋平が国立文楽劇場の前で、一人で立っている目の前を、大学生らしき若者が通っていった。洋平には、自由で、夢の実現のために努力している(と勝手に洋平が思っているだけの)大学生がとても羨ましく思えた。洋平は、夢から醒めていくのを感じた。理性が目覚めて、警鐘(けいしょう)を力いっぱい鳴らした。こんなことをしていたら、絶対に大阪大学になんて行けっこない。彼女を作るとしても、キャバクラ女では絶対駄目だと思った。
洋平はそのまま、初音を置いて地下鉄日本橋の駅へと向かって行った。