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連載小説 恋はお初天神から

「お初天神商店街曽根崎心中物語」

作:観朝 華乃子(みあさ かのこ)

<第五章> キャバクラ「ローズマリー」

その後の初音は哀れであった。ロビーで待っていると思っていた洋平が居らず、一瞬不安になったが、外で待っているに違いないと思い直して、会場の外へ出てみた。しかし、影も形もない、初音は、洋平に電話をかけてみるも圏外であった。ついさっきティッシュを手渡す洋平の笑顔には、深い愛が込められているように確かに感じられた。自分を置いて先に帰ってしまうはずがないと思った。もしかしたら、急にお腹が痛くなってトイレに駆け込んだのかもしれない。
初音は、会場の外で待った。辺りは、もう薄暗くなりかけていた。初音は、10分待った時、まだ洋平の腹痛を信じていた。目を閉じたら、トイレに長居したことに照れながら初音の前に現れる洋平が映った。そのさらに10分後、たったの10分で初音は、絶望のどん底の中で、目を閉じると洋平でなく一筋の光だけが、ちらついているだけだった。そして、その10分後、一筋の希望も完全に奪われ暗黒だった。初音は、目から涙が溢れていた。つい30分前までは、幸せの絶頂にいたのに、人ごみの中でしゃがみこんで一人泣き崩れた。夕日も完全に沈み、夜が訪れ、辺りは暗闇だった。会社帰りのサラリーマンやOL達が幾つもの集団を作って初音の傍を通り過ぎていった。僅かに照らされる照明の中で、集団には、顔も色彩もなかった。初音は、ゆっくり立ち上がり、日本橋筋の大通りを横切った。車に引かれて死んでしまったらいいのに。そう思った。車がクラクションを鳴らして、スピードを落とした。右手を大きく上げ、反対車線で、タクシーを拾い、そのまま自宅に戻っていった。

それから、数日、仕事中の初音は普段と変わりなかったが、洋平との初デートの日まで、店で洋平の話ばかりしていたのが、ぱったりと話さなくなったため、周りは全員初音の恋の末路を悟っていた。誰も初音の恋の傷口に塩を揉み込むような無粋(ぶすい)なことはしなかった。友達の千秋とは、お互いに予定がない限り、仕事の帰りに一緒にご飯を食べて帰っていたが、初音は、仕事が終わる時になると、控え室にも戻らず、派手な衣装のまま店の入り口から外へ出て、タクシーでまっすぐに家に帰ってしまうのだ。千秋は、初音の態度に少し怒って、周りに愚痴をこぼしていた。
「友達やったら相談するのが普通やん」
しかし、小(ちい)ママの洋子は、
「恋の前に友情は無力やで」
そんな風に、千秋をたしなめて、他の女の子達にも初音のフォローを頼んでいた。洋子は、内心初音のことが心配で何か助言したかったが、仕事は最低限こなしていたし、初音から話したくなるまでは、見守るだけにしておこうとおもっていた。
ところが、ある時、初音に初デートのワンピースを選んだエリート商社マンがやってきて、
「初音ちゃん、初デートはどうだった?うまく行った?」
と、皆がずっと気になっていたことを遂に訊いてしまったのだった。
「私、ずっと徳兵衛さんを探しとって、やっと見つけたと思ったのに、一緒に曽根崎心中観て、私がトイレ行ってる間に消えてしまってん」
初音は、本当のことなんて話したくなかったが、嘘がつけず、かといって、訊かれたことに理由をつけて、話さないこともできず、本当のことを話す術(すべ)しか持たなかった。初音の顔は、悲しみで引きつっていた。今にも泣き崩れそうだったが、キャバクラは、一皮剥けば女同士が食い殺し合う夜叉(やしゃ)の世界、その場の和やかな華やかな空気の裏には、張り詰めた女のプライドが鎬(しのぎ)を削る。初音は、無意識に感情を殺した。商社マンは、てっきりうまくいって付き合い始めてるものだと思っていたから、驚いて、謝ったが、既に遅かった。
その後、初音は、涙を流すようなことはなかったが、暗い顔で下を見て一言も話せなくなってしまって、仕事にはならなかった。それを見た洋子は初音を呼び出して、控え室へ連れて行った。
「初音、あんたプロやったら私情持ち込んだらあかんで。あんたは、いつも飾ららんと素直なんはええことやで、でも客は金出して遊びに来てるねんから、働いてる間は、自分を消して客を第一に考えなあかんねん。中途半端な気持ちで、惰性で仕事しとったら、生き残られんで。場を濁してしまうようなほんまの話するくらいなら、嘘ついて本心隠して、うまいこと立ち回らな」
初音は、それでも黙って下を向いたままだった。床に涙がこぼれ落ちていた。洋子はいたたまれなくなって、
「今日、帰りご飯食べに行こう。最近、全然私ら話できてへんやん」
洋子は、初音を励まして、その日は、初音を控え室で休ませることにした。
そして、その日の閉店後、近くのファミレスに二人で立ち寄った。
「そんなに辛いん?」
初音は、またしても大粒の涙をぽろぽろと流した。しばらく無言で泣いていたが、ようやく落ち着いて、
「生まれてから、こんなに辛いことは無かったわ。毎日が地獄のようやねん。家でずっと携帯にメールが来るの待ってるねん。何回かメールしたけど、返事ないねん」
と言った。
「直接気持ちを伝えてみたら?洋平君って例のお好み焼き屋たまに来てるん違う?それであかんかったら、もう諦め。失恋なんか誰でも一度は経験することやし、時間が経ったら忘れるもんやで。気持ちを切り替えな、生活ができへんようになるで。引きずるのが一番よくないで」
洋子は、初音に早く元気になってもらいたかった。
「時間が経ったら、忘れるような半端な気持ちじゃないねん。他の人やったら嫌やねん。洋平君以外は徳兵衛さんにはなられへんねん」
初音は、悲しみで細くなった喉から悲痛な声を絞り出した。洋子も、悲しくなって一緒に涙を流していた。
「初音、得てしまった恋は必ず消えるで。あんたがそんなにこだわったところで、手に入れたら、必ず消えてしまうものやねん。あんたは、幻をみてるだけやで。はよ、お好み焼き屋に行って、幻滅して来い」
そう言って、初音の頬を撫でた。
「ウチ、明日お好み焼き屋に行ってくるわ」
初音はようやく笑顔を見せることができた。