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連載小説 恋はお初天神から

「グッバイアゲイン」

作者:日頭真子(ひがしら ちかこ)

<第1話>他人の空似

月曜日の昼休憩は午後1時15分からだ。内山奈々子は職場であるH百貨店を出てお初天神通り商店街に向かった。大阪の冬は比較的暖かいとはいえ、その日は朝から粉雪が舞っていて制服の上にカーディガンを羽織っただけの格好はいかにも寒々しく見えた。ランチタイムのピークがとうに過ぎた商店街の中ほどにある居酒屋に入り、定食を注文する。奈々子は居酒屋の出す昼の定食が大好きだ。ご飯によく合うバラエティ豊かな惣菜が手ごろな価格で味わえる。酒はあまり飲まず、夜に居酒屋ののれんをくぐることはほとんどないくせに奈々子は昼間の居酒屋をあちこちまわり、ランチを楽しむのだった。
 食事を終えるといつものようにお初天神へ手を合わせに行った。あるお願いをするためだ。奈々子は今24歳。H百貨店に就職し、梅田店に配属されて以来2年弱この習慣を欠かしたことはない。奈々子の願い事はいつも同じ、ただひとつ。
「聡にもう一度会えますように」
 
 お初天神というのは恋愛成就のシンボルとしての通称で、正式には露天神社(つゆのてんじんしゃ)だ。学問の神様・菅原道真が訪れた際に詠んだ歌が元になっている。元禄期の浄瑠璃作家・近松門左衛門が当時の実話をもとに書いた「曽根崎心中」の舞台。お初と徳兵衛の悲恋が話題を呼んだ。
 
 奈々子は大学を卒業するまで実家のある東京で過ごし、就職を機に初めて大阪に来た。彼女が勤めるH百貨店は日本でも指折りの老舗で、梅田店は大阪駅・梅田駅からは目と鼻の先という立地にあり関西では一、二の売上げを誇る。この界隈は関西一の商業、ビジネス、エンターテインメントの集積地であり常に賑わいを見せている。人の多さや商圏の規模では新宿や銀座に及ばないが、大阪独特の雑然とした何とも言えない雰囲気が奈々子は好きだ。彼女は生来底抜けに明るく、つらい局面や失敗なども常にキラキラとした笑顔で乗り切るたちだった。感情もストレートでよく笑い、泣く。そんな性分は大阪の空気にすぐなじんだ。
 お初天神のことを知った当初、「恋愛成就っていうけど、お初と徳兵衛はこの世で一緒になれなくて死んでしまうんだよね。ご利益あるのかなあ……」といぶかる気持ちが奈々子にはあった。が、作品自体は好きだったし、神社周辺の情緒あふれる雰囲気に強く心ひかれたこともあって、いつしか毎週のようにお参りするようになったのだ。細い路地、お好み焼き屋や焼き鳥屋など昔ながらの飲食店、野良猫の親子。駅前の喧騒とは打って変わって神社の辺りはゆっくりと時間が流れているような感覚をもたらす。
 平日の昼間、都会の繁華街のど真ん中にある神社を訪れる人は少ない。奈々子は閑散とした境内を横切り、神社を出るため石段を降りようとした。数段しかない石段ではあるが一段一段が高く、非常に急である。足元をよく見ていなかった彼女はうっかり足を踏み外し、あっという間もなく石段の下まで転げ落ちてしまった。
「あ痛たたたた……」。いい大人がマンガのように転んでしまった恥ずかしさとひざの痛みで頭に血がのぼり、しばらく顔を上げることも起き上がることもできなかった。途中立ち寄ったドラッグストアのビニール袋もあらぬ方向へ飛んで行ってしまっている。購入した徳用のカイロが散乱し、格好悪いことこの上ない。
奈々子は自分がこのような「鈍くさい」失敗をよくやらかすことを自覚している。「はきはきと元気でしっかり者だが、たまにとんでもなく抜けていることがある」というのが周囲の評価である。(ったくもう……またドジっちゃった……)
「大丈夫ですかっ?!」
 ひとりの若い男性が奈々子のもとに駆け寄り、心配そうに声をかけた。
「だ、大丈夫ですか?」
 男性は奈々子に手と肩を貸し、立ち上がらせてくれた。ぶちまけた徳用カイロまで拾い集めてくれている。奈々子はみっともなさで逃げてしまいたい気持ちをかろうじて抑え、礼を言わねばと思い顔を上げた。
(あれ……?)男性を見た瞬間、不思議な印象を抱いた。(聡……? ううん違う……) 声にも何となく懐かしい響きを感じるような気がした。優しく気づかうような口調が特に。年齢は奈々子と同じくらいか、少し上に感じられた。
「随分と派手にこけちゃってましたけど、ケガはありませんか?」
「あ、大丈夫ですすみません。ちょっとひざを打っただけで……あの、ありがとうございます。ほんとにご親切に」
 男性は一転笑顔になり、「ああよかった。ずっと動かないもんだから。一瞬救急車を呼んだほうがいいかなと思ったくらいですよ。でもあとでものすごく腫れてしまうこともあるから、いつまでも痛みが引かないようなら病院へ行ったほうがいいですよ」と言った。
 奈々子はもう一度その声に耳を傾けてみる。心の奥深くにかすかな何かがじわりとにじんだ。
「ありがとうございます。けっこう体は頑丈なので、平気です」
 実はまだひざがじんじんしていたが、これ以上気をつかわせるのは申し訳ない気がして、彼にていねいにお辞儀してその場を立ち去ろうとした。
「お気を付けて。お大事に」
 彼は右手を軽くあげ、商店街の反対側へ歩いて行った。
 奈々子は立ち去りながらも、角で曲がる前に立ち止まって振り返り、男性の後ろ姿をしばらく目で追った。彼女の頬は紅潮していた。それは転んだ恥ずかしさからではない。
 仕事に戻るため足早に道を急ぎながら先ほどの感覚を思い返してみる。そして「似ている……。あの人……聡だったのかな……」と無意識につぶやいていた。しかし次の瞬間、はっとわれに返り、少し悲しげな表情で笑った。
(何考えてんだろ。聡なわけないじゃん――)
 聡。奈々子が一度たりとも忘れたことはない青年――。奈々子の脳裏に、7年前のことが鮮やかによみがえった。
【つづく】