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連載小説 恋はお初天神から

「グッバイアゲイン」

作者:日頭真子(ひがしら ちかこ)

<第2話>ピアノの旋律

奈々子は高校生だった7年前のことを思い出すたび、胸にキュッと痛みが走る。聡と出会ったときのこと、聡と過ごした高校時代のことを奈々子は忘れることができない。
 
  当時、奈々子は東京都内のある私立高校に通う1年生だった。聡を初めて見たのは、3学期に入り、すっかり“いまどき”の女子高生になりきって毎日が楽しくて仕方のない時期だった。奈々子はバスケットボール部に所属し、放課後は毎日体育館で部活の練習に励んでいた。
  ある日のこと。部活の練習の休けい時間、普段部員たちは体育館内かその入口付近にある芝生やベンチで休みをとるのだが、奈々子はなぜか外の空気を吸いたくなり、体育館を出て別館校舎の方へ歩いてみた。新しく増設された別館校舎には、1年生の一部のクラスと芸術関係の専用教室や英語のLL教室などが入っている。奈々子たちの教室がある旧館とはグラウンドを挟んで随分離れているので、これまで足を運ぶ機会はほとんどなかった。別館の裏側には大きなクヌギの木があり、体育館の窓から見え隠れしている。奈々子は衝動的にそのクヌギの下に行ってみたくなった。
 クヌギのもとへ行くと、奈々子は幹に背をもたせかけ、うっすら茂る芝生に腰を下ろした。すると校舎のどこかからピアノの音が聞こえてきた。別館校舎の1階は音楽室だから、誰かがピアノを弾いているのだろう。ピアノの上手下手はわからないが、遠くで奏でられるその音色には心にしみ入るような優しさ、そして艶っぽさがあった。大小様々なガラス玉が弾けるように、高低や緩急が生き生きとしたメロディーラインとなって奈々子の耳に抵抗なく入ってくる。流行のJポップ以外の音楽にあまり興味はなかった奈々子だが、そのピアノ演奏には不思議と引き付けられた。
(誰が弾いているんだろう)。奈々子は裏庭に面した音楽室の窓の向こうに目を凝らした。
  ひとりの男子生徒がピアノに向かっていた。1階は裏庭より少し高くなっており、彼の斜め後ろ下から見上げる形で顔ははっきり見えない。その後ろ姿に見覚えもない。少し長めの襟足が印象的な黒髪と、リズムに乗りながらときおり見せる色白の横顔が奈々子の目をとらえて離さなかった。ピアノを弾いている手元は見えない。鍵盤を叩く彼の指を見てみたい、と奈々子は思った。
 そんなことを考えているうちに練習再開の時間が迫っていることに気が付き、後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。
  翌日から奈々子は毎日そのクヌギの下で休けい時間を過ごすようになった。彼女の目的は、「ピアノの彼」だった。すぐにバスケ部の練習は始まってしまうから、そこにいられるのは実質15分程度。その間、彼のピアノ練習に耳を傾けるのが奈々子の日課になった。その音色は彼女にエネルギーを与えてくれるような気がした。
 奈々子にいる場所は低くなっていて、彼のいる場所からはほとんど見えない。彼はずっと奈々子とは逆の方向を向いていて彼女の存在には気付いていないように思われた。名前や学年を知りたい。音を奏でる手元を見てみたい。奈々子の思いは日ごとに募った。
  学校が休みの日、そして雨の日は奈々子にとって最高につまらない一日となった。彼のピアノが聴けない。特に雨の日はいら立った。彼が音楽室にいるのをわかっているのに行けないことが奈々子には口惜しくてたまらなかった。
 奈々子はこれまで、スポーツができたりバンドを組んだりして目立っている「カッコいい」男子生徒ばかり見ていた。もちろんこれは奈々子だけに限ったことではなく、10代の若者というのはそのようなわかりやすい見た目の格好良さ、可愛らしさに目が行くものだ。奈々子の高校で花形的存在だったサッカー部などは、その年にワールドカップの日韓合同開催されることもあって女子生徒の注目の的だった。そして、「○○君がカッコいい」、「あたしは○○君のほうがいい!」などと好きなことを言い合って楽しんでいた。
  そんなわけで、ピアノやクラシック音楽をたしなむような趣味を持つ男子生徒は彼女らの眼中にないも同然だった。奈々子は、そんな友人たちに自分が「ピアノの彼」にひかれていることを知られるのがなんだか恥ずかしく、そのことを内緒にしていた。
 
  それから1カ月ほどして奈々子は、「ピアノの彼」が自分と同じ1年生で、別館校舎のクラスにいることを何とかつきとめた。昼休みなどにそれとなく他のクラスを見て回ったのである。しかし、誰かに聞いて彼の名前を確認するまでの勇気はなく、ずっと放課後の15分間、彼を斜め後ろから見つめながらもれ聞こえる音色を聴いているだけだった。
 だが、「『ピアノの彼』とひと言でもいいから言葉を交わしたい」奈々子の彼への思いは日増しに大きくなってゆく。「もうすぐ3学期も終わってしまう。春休みに入ると彼に会えなくなる」「彼のピアノが聴けなくなるかも知れない」「部活の練習は春休み中もあるが、彼は音楽室に来ないかも知れない」「彼が3年生じゃなくてよかった」と一喜一憂しながら、楽しくも空しい時間を過ごした。
  春休みもあと2週間に迫ったある日、奈々子は意を決していつも休けいしていたクヌギではなく、別館校舎に入り、「ピアノの彼」がいる1階の音楽室に向かった。心臓は息苦しいほどに高鳴り、手のひらは汗びっしょりだった。奈々子は音楽室に近づくと、おやと思い立ち止まった。なぜかピアノの音が聞こえてこないのだ。そして、音楽室の扉が開けっ放しになっている。勇気をふりしぼって教室の中をのぞいてみたが、誰の姿もない。
 教室内を見回しながら、彼がいつも弾いているピアノに近づき、恐る恐る鍵盤にふれてみた。ふと、視界の片隅に何かの影を感じ、窓の方向に目をやった。
  奈々子はあまりの思いがけない状況にあっと叫びそうになった。あのクヌギの下に「ピアノの彼」が立っていたのである。奈々子がいつもこっそり休けいをとっている辺りにたたずみ、周りを見回している。
(どうして彼があそこに―?)奈々子は動転し、訳もわからぬまま窓を開けた。その瞬間、彼が音楽室の方を振り向いた。ふたつの視線が宙でからみあい、ふたりの動きを遮断した。
 
 あのときの光景を奈々子は今でも鮮明に憶えている。 
 【つづく】