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連載小説 恋はお初天神から

「グッバイアゲイン」

作者:日頭真子(ひがしら ちかこ)

<第3話>突然の別れ

あの出来事の翌日から毎日、放課後の音楽室には彼のピアノを聴く奈々子の姿があった。彼の名は雨宮聡(あまみや さとし)。聡はやはり奈々子が毎日クヌギの下にいたことに気づいていた。彼がよく演奏していた曲が、ベートーベンの3大ピアノソナタのひとつ、『熱情』であることも知った。
 口数はあまり多くないが、その分彼の奏でる旋律はいつも雄弁だった。
「あたしクラシックとかそういうの、全然ダメなんだ。音楽の授業で無理やり聴かされてたイメージしかなくて。なんかお上品な、別世界って感じがしてた」
クラシックに馴染みがない奈々子に、聡は日常でよく耳にする曲を織り交ぜ、ピアノを弾いて聴かせた。
「これは知ってるでしょ?」
「あ! 坂本龍一の……」
「そう。『戦場のメリークリスマス』。いい曲だよね。じゃ、これは?」
「うん、知ってる! でも、なんていうタイトル?」
「チャイコフスキーの『くるみ割り人形』。楽しい曲でしょ。クラシックといっても実はとても身近で、いろんなところで耳にしているものなんだよね」
聴いたことのある曲を奈々子がピアノと一緒にハミングすると、聡はうれしそうな表情を見せるのだった。
「『熱情』っていうんだね、雨宮君がよく練習しているあの曲。すごく不思議な曲……なんていうか、炎みたいな。うまく言えないなあ」
「僕がいちばん好きな曲。3楽章全てをパーフェクトに弾きこなすのはけっこう大変なんだ」
聡は『熱情』をとくに奈々子の前で好んで弾いた。聡の長くしなやかな指が鍵盤の上を自在に駆け回る情景。“しなやか”という言葉が奈々子にとって、こんなにもしっくりときたことはなかった。あれは物静かな聡の、あふれるような熱い思いの表現だったのだと、今にして奈々子は感じていた。
 
 ふたりは毎日一緒に登下校するようになった。
「ナナ、僕は世界を股にかけるようなピアニストになって、ベートーベンの『熱情』で大観衆を感動させてみたい。そのためには、まずN音楽学院大に合格して、ウィーンに留学しないとね。大それた夢かも知れないけど」
「聡ならぜーったい大丈夫だよ。あたしが保証する!」
 聡は奈々子によく夢を語った。それが実現すればどんなに素晴らしいだろうと、自分のことのように彼女は考えていた。
聡と交流が深まるにつれ、彼が美術や文学、そして時事問題や社会問題など音楽以外にも精通していることがわかり、奈々子は大きく影響を受けた。これまで本といえばマンガかティーン向けのファッション雑誌、テレビではお笑いかバラエティ、もしくはスポーツ番組以外に興味を持ったことがなかったが、聡が持つ未知の世界へ奈々子はぐんぐんと引き込まれていった。
ふたりの周囲は少なからず驚いていたようだった。勉強より運動が好きでいつも明るくはしゃいでいた奈々子はクラスでも目立つ存在で、男子生徒にも人気があった。いっぽう聡はおとなしく控えめで、当世風のファッショナブルな男の子とは対照的な生徒だったから、ふたりの交際は当初「一風変わったカップル」と学校で噂になるほどだった。
しかし、お互いにないところを補い合うバランスの良さが微笑ましかったのか、次第に周囲の目はあたたかいものに変わり、ふたりは校内で公認の好感度ナンバーワンカップルとなった。
奈々子は趣味や知識、全てにわたって大人びた聡に刺激を受けながらも、自分の好きなマンガやお笑い芸人、スポーツなど流行の話題を彼に紹介し、ともに楽しんだ。聡は明るく笑う奈々子をいつもまぶしそうに見つめていた。
 また、ふたりはお互いの家もよく行き来した。聡の両親は奈々子をとても気に入っていた。とくに奈々子が“聡ママ”と呼ぶほど慕うようになった母親は、「ナナちゃん、ほんとにいつもありがとう」と、おとなしい息子にガールフレンドができたことを心から喜んでいた。それはもちろん奈々子の親も同様だ。クラシックや文学にも興味を示すようになった娘の変化に、はじめは何事かと驚いていたものの、聡を紹介したとたんいたく納得し、安心した様子を見せたものだった。
ふたりは映画、美術館、スポーツ観戦、クラシックコンサート、アウトドアなど、持てる時間の限りを共有した。奈々子は気分屋でころころと表情が変わり、いったん怒り出すと手がつけられないが、次の日にはけろっとした顔で聡を苦笑させていた。彼女は聡の懐の深さに頭が下がる思いだった。そして、彼を深く信頼し尊敬していた。
お互い、はっきりとではないが心の中で、この先ずっと一緒にいたいという思いを抱き始めていた。
 
 出会いから1年半ほどが過ぎた高校3年生の夏休み。奈々子は大学進学のための受験勉強にいそしみ、聡はN音楽学院大目指し猛特訓の毎日だった。彼はそれまでに、いくつかのコンクールで入賞を果たすなど順調に実力をつけていた。次に控えていたある大きなコンクールが、奈々子の父の実家の帰省日と重なっていたため、奈々子家族はコンクール前日、滞在先の北海道から受話器越しに聡へエールを送った。
「おみやげは何がいい?」
「やっぱり『白い恋人』かな?」
「じゃ、私にはコンクール最優秀賞を用意しといてね」
「うん。任せといて」
しかし、これが聡との最後の会話となった。
コンクール当日、会場へ向かう途中で信号無視の乗用車にはねられ、聡は帰らぬ人となった。
【つづく】