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連載小説 恋はお初天神から

「グッバイアゲイン」

作者:日頭真子(ひがしら ちかこ)

<第4話>幻想

奈々子はうつむいて唇を少しかんだ。回想が聡の死におよぶと胸の痛みがいっそう強くなるからだ。時には泣き出したくなることもある。気を取り直して持ち場に戻り、午後の業務につくが平日の昼下がり、百貨店は客もまばらで、結局この時間帯は奈々子にとっていやがうえにも記憶が巡る嫌なひとときとなる。始末の悪いことに、目を軽く閉じるだけで、脳裏に焼きついてぬぐい去ることのできない情景がまぶたの裏で繰り広げられる。思い出そうとしなくとも奈々子の意思に反して――

 

 音楽室の窓から奈々子が、クヌギの下から聡が、初めて見合った日の出来事は最も思い出深い。奈々子はまたそのときのやりとりを思い出していた。聡は驚いて言葉もなく、固まったままこちらを見ていた。何か言わねば、と奈々子は思った。

「ごめんなさい、勝手に入っちゃって。えーっと、そのあたし……」

「内山さんでしょ?」

「知ってるの!?」

「けっこう有名っていうか。人気者みたいだし」

聡が自分の存在を知っていたことに奈々子は感動すると同時にクヌギの下にいたのがばれていたことに言いようもない恥ずかしさを覚えた。そして、今自分が置かれている状況にひどく興奮した。(あたし今、ピアノの彼と会話している)

ほどなく、彼が遠慮がちに音楽室に戻ってきた。奈々子の想像よりもずっと長身だった。うつむき加減で、少し動作がぎこちない。

「放課後いつもピアノが聞こえていて、すっごく上手で、誰なのかなあって、思ってて、で、今日はなんか聞こえないなあって思って……」

まだ何も聞かれていないのに奈々子は言い訳がましく一気にまくしたてた。彼と向き合っている非常事態にのぼせ上がり、とりあえずしゃべらないと正気を保てそうになかった。

「実は……僕は今日、思い切ってこれを内山さんに渡そうと思ってて」

彼は一枚のCDを手にしていた。そして、目を合わせずにそっと奈々子に手渡した。

CDのジャケットには「ベートーベン ピアノソナタ『熱情』」とあった。ケースを裏返すと、「よければ聴いてみてください 雨宮 聡」という短いメッセージが記されていた。整った、知性を感じさせる字だった。奈々子はその名前をゆっくり、頭の中で発してみた。

(あまみやさとし――)

彼も緊張しているのか、「僕はその曲をよく練習していたんだけど、内山さんその曲が好きなのかなと思って……あ、ただ休んでるだけでピアノなんか聴いてなかったかも知れないから、もしよかったら、なんだけど。迷惑でなかったら……」

「それで、雨宮……くんは、あそこであたしを待っててくれたの?」

「そう。もうすぐ春休みに入るでしょ。春休みは僕、別の場所で特別レッスンを受けることになっているから学校では練習できないんだ。だから……えーっと」

聡はやっと正面から奈々子を見つめた。次の瞬間、ふたりは照れながらクスッと笑いあった。

「あ! やばーい! 練習始まっちゃってる!」奈々子は音楽室を駆け出し、振り向きざま聡にこう言った。「明日からはここに来るから!」

聡は微笑んだ。その微笑みは奈々子の心を幸せでいっぱいにした。

 

これから一緒に彼の夢を追いかけたい、応援し続けたいと思っていた矢先にあんな形で彼を失ってしまった。「幻でもいい、夢でもいいから聡にもう一度会わせてください」。奈々子は自分でもどうかしていると思いながらも、毎週月曜日の昼休みに人知れずお初天神へお参りに行っているのである。

しかし今日は、一瞬だが思いがけないことが起こった。転倒したとき助けてくれた青年のことだ。話し方、背格好、雰囲気、どれをとっても聡を思わせる不思議な人物。

(大阪の人じゃないな。東京っぽい話し方だった……)。しばらく考えてみて、奈々子はふっと苦笑いした。

 聡は7年前に死んだ。だから、どんなに似ていたとしても、彼は聡でも、彼の生まれ変わりでも、あるはずがない。他人の空似だと自分に言い聞かせた。

 

 奈々子は決して周囲に後ろ向きなところを見せることなく、明るく振舞っている。はきはきと笑顔にあふれた奈々子の接客は社内でも客にも評判である。ここは奈々子や聡が高校時代を過ごした東京から500キロも離れた大阪。奈々子の過去を知る人物はいない。

 そう、奈々子は頭では十分すぎるほど分かっていた。聡の幻を追いかけても無意味であり、あの世の聡だってそんなことを望んでいるはずがないと。もちろん何度も忘れようとした。聡を思い出させるものは自ら進んで排除した。彼の話題にも自分からは一切ふれることはなかった。大阪で就職したのも、そんな理由からだった。

 とはいえ“聡の幻”から決別できるきっかけを見出すのは難しかった。奈々子は背が高くすらりとしたスタイルで、華があるためアプローチする男性は多いが、どうしても新しい恋への一歩を踏み出すことができないジレンマに苦しんでいた。

 周囲の人々は奈々子が恋人をつくらないことを不思議がった。同僚からは「内山さんって理想高すぎるんとちがう?」と言われ、上司からは「選り好みしとったら行き遅れてまうで。あ、もしかして不倫か?」などとセクハラまがいの言葉を浴びせられ、よく行く居酒屋の主人には「男、何人も手玉にとって遊んでんのちゃう? おーコワ」とネタにされる始末。そのたびに奈々子は仕方なく「縁がないんですよねー。誰か紹介してくださいよー」と適当にあしらうしかない。

 だが、そんな今も熱心に奈々子にアプローチしてくる男性がいる。香山雄一という、H百貨店の取引先のいわゆるエリート商社マンである。今日は月曜日だから、そろそろ雄一が現れるかも知れないと、奈々子は少しゆううつになった。

【つづく】