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連載小説 恋はお初天神から

「グッバイアゲイン」

作者:日頭真子(ひがしら ちかこ)

<第9話>ピアニスト

 礼の言葉に奈々子は耳を疑った。
「礼、今、ピアニストって言った……? 本当?」
「うん、絶対そうやわ、ね?! ピアニストの、えーっと……確か西……?」
 彼女は顔を輝かせてたたみかけるように問う。青年は、照れ隠しに後頭部をかくような仕草で、「いえまあ……はい。僕のことなんかよくご存知ですね。名前は西島新一郎っていうんですが」と言った。
「そう! 西島新一郎さん。今注目の若手やて評判じゃないですか。奈々子は知らんかった?」
「……うん。そ、そういう方面には疎いんだ」
 疎いというのはうそではなかった。聡がこの世を去ってからというもの、奈々子は彼を思い出させるモノや情報から一切離れてしまっていた。当然ピアノの世界に関しても、どんなピアニストが活躍していて誰が有望視されているのかなど、全く知らなかった。
 礼は聡がピアニストを目指していたことまでは知らない。聡という名前も奈々子はことさら出さず、「とても大好きだった元彼が死んでしまった」と伝えるにとどめているのだ。しかし礼は聡個人のことについて根掘り葉掘り奈々子にたずねたことは一度もなかった。
 「梅田店一の情報通」と呼ばれるほどうわさ好きの礼がそこに触れてこないのは、彼女なりに奈々子の複雑な心の葛藤を敏感に感じ取ってくれているからに違いないと奈々子は思っている。そういう礼だからこそ奈々子は安心して付き合っていられるのだった。
 
 それにしても、何という偶然の重なりだろう。奈々子はあまりの奇妙さを空恐ろしくさえ感じた。ピアニストの西島新一郎。今彼は、聡がまとっていたオーラを強烈に発して奈々子の目の前に存在していた。
「今、ピアノリサイタルでしばらく各地をまわっているんです。関西では今週末に大阪と京都で公演を予定していて、実はすぐ近くのMホテルに滞在中なんですよ」
「リサイタル? すごくご立派なんですね」
 奈々子は感心した。相当な実力の持ち主だということだ。なぜか心の底から喜びがわきあがる。
「立派なんてとんでもない。念願かなって、初のリサイタルです。今日はこれからホールでリハーサルがあります。仕事頑張ってくださいね、おふたりとも。それからえっと……内山さん、とおっしゃるんですね、足元にはくれぐれも気をつけてください。では」と、新一郎は奈々子の名札を見ながら言った。
「あ、はい……どうもありがとうございました」
奈々子は半ば忘我の境地で、前日と同じようにただ新一郎の後ろ姿を眺めていた。礼がすかさず大きな声で言った。
「西島さん! 大阪おるうちにまた来てくださいね! あ、今この地下で駅弁フェアやってますからー! 絶対おすすめですよ!」
 その声に新一郎は一度振り向き、笑顔で片手をあげた。ふたりは彼がエスカレーターで降りていくまで見送っていた。
 
「ちょっと奈々子! 何ボーッとしてたんよ。お礼に食事でも、とかないの?! せっかく元彼のそっくりさんと再会できたのに。そやけど、こけたときに外れたネックレス届けてくれたって……うまいことできてるわあ」
「それより礼、何で若手ピアニストとか知ってるの……? そういうの詳しかったっけ?」
「え? 全然詳しくないよ。こないだ、たまたま何かの雑誌に載ってるの見ただけ。でも、注目されてるんはホンマみたいよ」
「……それ、何ていう雑誌?」
「そんなん覚えてない。何やの、ピアニストっていうのがそんなに驚きなん?」
礼が不思議そうに聞いた。奈々子は答えず、口ごもった。
「でもさ、大人な雰囲気の人やね西島新一郎って。ちょい線の細いところとか、ピアニスト! って感じやわ。……あたし元彼見たことないけど、奈々子、ああいう人が好みなんやね。うーん、確かに香山さんとは全然ちゃうタイプやなあ」
「いつまで大阪にいるんだろ。頭に血がのぼって聞くどころじゃなかった」
「少なくとも週末までいてはるんは確実やね。泊まってるMホテルもめちゃ近いし。今日は火曜日やからまだ会えるチャンスあるんとちゃう? ……あーっスペシャル弁当食べる時間なくなったやんか! 激ヤセしたらどうすんのよ!」
 
 やっぱり……やっぱり似ている。最初に抱いた感覚は本物だった。あの話し方、あの仕草。しかも、ピアニストだとは――
 奈々子はやりとりを思い出しながら確信をいっそう強めていた。絶対に何か理由がある、単なる偶然ではない、という確信を。聡は困ったり照れたりしたときいつも、右手で後頭部をかく癖があった。新一郎のその仕草は、彼女の中に鮮烈に聡を呼び起こした。
(たとえば、何かの事情で本人たちも知らない血縁関係とか――?)
 
 奈々子はなぜか新一郎が再び現れるだろうという直感めいたものを持っていた。
 彼女の読みどおり彼は翌日、さらにその翌日も売り場にやって来た。
「今日は軽く練習するだけで、一日フリーだったんで大阪のまちをブラブラしてたんですよ。で、昨日お友達がおっしゃってた駅弁を食べてみようかなと思って」
「食いだおれの街ですから、おいしいものたくさん食べて、ベストコンディションで本番に臨んでくださいね」
 奈々子は少女のように胸躍る気持ちで新一郎との会話を楽しんだ。それはときめき、というより何か懐かしく清々しい、そして心安らぐひとときに感じられた。
「あたし、こっそり西島さんをインターネットでググっちゃいました。過去の受賞とか、すっごく華々しくてびっくりしましたよー。でも、プライベートな情報なんかはほとんどなくて残念。生まれはどちらなんですか? ピアノは何歳ごろから?」
「横浜です。ピアノは10歳からかな。でも、受賞なんて別に大したことないですから」
 会話の中からそれとなく新一郎の身辺を探ってみたりもしたが、聡とつながりそうなものはなかった。奈々子はますます混乱するばかりだった。
【つづく】