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連載小説 恋はお初天神から

「グッバイアゲイン」

作者:日頭真子(ひがしら ちかこ)

<第12話>(最終話)真実の証

 動揺を隠せない声と、その後に続いたしばしの沈黙がもう答えを表していた。聡の母親は、奈々子がなぜ知ったのか、どう答えるべきなのか、電話口で一所懸命考えているに違いなかった。
 奈々子はあらかじめ考えておいた理由を話した。本当の理由を告げるのはさすがにまずいだろうと思えたからだ。聡が生前ドナー登録をしていたことを急に思い出し、もしかしたら聡の身体の一部が今もどこかで生きているかもと思うようになり、いても立ってもいられなくなった、というようなものだ。
 沈黙のあと、聡の母親は震える声で言った。
「ナナちゃん……黙っててごめんなさい……」
(ああ、やはり――)
 奈々子は目を閉じ、耳にあてた受話器をぎゅっと握った。
 
 両親が病院にかけつけたとき、聡はすでに脳死状態だった。彼がドナーカードを持っていたことから、医師に「心臓移植を待っている人がいる。条件も全て適合している」と、臓器提供の同意を嘆願されたという。まだ動いている心臓を前に悩みぬいたが、それが聡の遺志ならと決断したのだった。
 いかに身を切られるような思いだったかは容易に想像できた。もし身内に同じことが起こったらきっと耐えられないだろうと奈々子は思った。
「ナナちゃんごめんね、どうか残酷だなんて思わないでね。それに、黙っててごめんなさいね。あんなに聡のこと好きでいてくれたナナちゃんに、どうしてもこのことは言えなかったの」
「そんな、残酷だなんて! むしろ立派だと尊敬します。あの……その移植を受けた方というのは……?」
「それは、私たちも知らないの。移植患者さんの側も私たちがどこの誰かは知らされていなくて、それがルールになってるんだって。……気になるとは思うけど」
「そうなんですか。でも、聡くんの心臓がどこかで元気に動いてくれているのならそれで十分です。教えてくださって感謝しています」と奈々子は礼を述べ、切り上げようとした。
「あ、そうそう。聡と同い年くらいの男の子だったって、それだけは教えてくれた。聡が生きていたら、ちょうどその人の年齢ぐらいなんでしょうね……」
 奈々子にとって聡の母親から得た情報は、新一郎の心臓が聡からのものであると確信するのに十分すぎるくらい十分であった。
 
 次の日奈々子は、Sホールに向かっていた。新一郎の大阪公演の日であり、大阪滞在の最終日でもあった。
(あたしはずっと聡の幻にとらわれ、しがみついてきた。幻でいいから、一度でいいから会いたいって願っていた……。きっと、そうすれば幻に呪縛された状態から逃れられると……。今、やっとそのときが来たような気がする)
 奈々子は、これで最後にしようと心に決めたのだった。
(聡から心臓を授かった西島さんと出会うことができた。びっくりするくらい似ていたのは、未だに説明がつかないまんまだけど……奇跡が起こったんだと……あたしは思うことにする。それに、聡の遺志を思い出せたことで、西島さんの中に聡の魂があるわけじゃないって思うことができたんだよね)
 聡の魂はここではない、どこか遠くにある。そしてきっと自分を見守っている、奈々子は今そう思っている。
(だから……だからお願い。最後に一度だけ、あなたを聡と思って、ピアノを聴かせてください……)
 
 当日券を手に入れるため早めに来た奈々子は、控え室はどこだろうと辺りをきょろきょろ見回しながら歩いた。そのため廊下の段差に気付かず、思い切りけつまずいて体ごと転倒した。
「きゃあああっ! ……ま、またやっちゃった」
 やっと青アザが消えたと思ったところにこれだ。新一郎に渡すために持ってきた花束が前方に吹っ飛んでいた。
 起き上がろうとしたとき、「内山さん?!」という声が聞こえた。
「に、西島さん……」。奈々子はこのときほど、穴があったら入りたいと思ったことはなかった。新一郎は奈々子にかけより、笑いをこらえたようすで彼女の手をとった。
「大阪ではよくこける女性に出会うなと思ったら、内山さんとは。足元には気を付けてって僕、言ったでしょ? ほら、大丈夫ですか?」
 中腰になった新一郎に身体を支えられたとき、奈々子の頭が一瞬新一郎の胸に触れた。奈々子はその瞬間、新一郎の心臓の鼓動が聞こえたような気がした。
(聡の心臓……動いてる)。奈々子は感動をおぼえ、新一郎を見た。黒のタキシードが長身の黒髪によく似合っていた。
「内山さん……ありがとうございます、来てくれて。僕なんかのピアノをわざわざ」
「西島さんのピアノ、とっても興味があったんです。で、今日お休みだったから思い切って」
「ちょっと言うの恥ずかしいんですが、実は今日内山さんが来てくれるんじゃないか、って感じてたんです」と、わずかに耳を赤く染めて新一郎は言った。
「ど……どうしてそんなふうに?」
「うーん、何となく、そう思ったんです」
 ふたりの視線が合わさったまま、短い沈黙があった。そして奈々子が落とした花束に気付いた新一郎は、それを拾い上げながら不思議そうに言った。
「お花、ありがとうございます。白いアネモネ……?」
「西島さん、白のアネモネが好きだった……いえ、きっとそうなんじゃないですか?」
「どうして分かるんですか」
「何となく、そう思ったの」
 新一郎は目を細め、まぶしそうに奈々子を見た。
「確か花言葉は……」と彼が言った後、ふたりの声が重なった。
「真実」
 
 ホールが拍手に包まれ、ピアニスト西島新一郎がステージのピアノに向かう。
 後方の席から見つめる奈々子。ピアニストは静かに鍵盤に両手を置いた。奈々子はそっと目を閉じた。
 つややかな旋律が奈々子の耳に流れてきた。それはベートーベンのピアノソナタ『熱情』だった。聡がいちばん好きだった『熱情』――。そして目を開けた奈々子の瞳に映ったものは、奈々子のためにピアノを一心に弾く聡の姿だった。
(聡、やっと夢がかなったんだね……西島さんが、聡の夢をかなえてくれたんだね……)
 奈々子は泣いていた。涙でステージがぼやけても、流れるままにまかせ、じっと旋律に耳を傾けていた。
(聡、あたしもう大丈夫だよ。聡の幻から、卒業できるよ。さようなら、聡――)
 
 リサイタルは盛大な拍手で幕を閉じた。ホールを出た奈々子は、薄暮の空を見上げなが
ら清々しい顔で言った。
「これからはきっと恋だってできる。……お初天神さん、ありがとう」
【おわり】