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連載小説 恋はお初天神から

「お初天神商店街曽根崎心中物語」

作:観朝 華乃子(みあさ かのこ)

<第一章> お好み焼き屋「こてこて」

よく晴れた春の日だった。
一人の若者が、露天神社で熱心に祈願している姿があった。
若者は、追い詰められ、神仏に一途にすがり、帰依しているような一心不乱さはなかった。彼は、事前に調査を行った参拝方法、再拝二拍手一拝を機械的に行い、神社を後にした。
若者は、高校を卒業したばかりの浪人生だった。川崎洋平という名で、大阪大学に合格確実と誰もが思っていた。しかし、失敗した。
洋平は、失敗に心当たりがさっぱりなかった。手ごたえも十分あった。もしや、答案に名を書き忘れたか、数学の記述問題の出だしの簡単な計算を誤り、芋づる式にすべての回答に不正解をたたいてしまったのだろうか。もしくは、小論文の内容が智に長けすぎて角が立ったため、採点者の機嫌を損ね不当な評価をくらったのだろうか。妥当な原因を、でたらめに思いめぐらしていた。
それにしても、さっぱり見当がつかない。洋平は、どうにも附に落ちなかった。
従って、彼は、自分に落ち度があったわけではなく、ましてや、自分の実力が足りなかったのではなく、神仏の取り計らいにより、ただ合格すれすれで、合格祈願に行った輩どもに合格が優先され、こともあろうに、自分が輩に押しのけられて、合格の優先順位を下げられた、という疑いを持つに至った。
洋平は、人生で神に何かを頼んだことはなかった。不合格の通知を受け取った瞬間に、正月にテレビで放送されていた、合格祈願をする受験生たちの姿が一番に思い浮かんだのだ。
神に祈願するということが自分の人生には、必要なのだ。一見一年間人生を無駄に過ごすかもしれぬが、結局は神に帰依するという習慣を身につけることにより、他人に信心深い高徳な人間と思われ、人生プラスに作用するのであろう。最終的には、人生の近道に転ずる結果を生むのであろう。人生、万事塞翁(さいおう)が馬である。そう冷静なつもりになって、辛い現実を受け止めていた。
そして、学問の神様が祀られており、名があり、大阪鎮守(ちんじゅ)である、露天神社、通称、お初天神へ参ったのであった。

その帰り、お初天神通り商店街を通って梅田駅に向かっていた。
お初天神通り商店街は、洋平がこれまで暮らしてきた世界とは異なっていた。下町の温かみのようなものがあり、初めての通ったにも関わらず安堵の感情が不意に沸き起こってきた。
昼間のお初天神通り商店街は大阪弁剥き出しで元気のよい明るい声が、あちらこちらから聞こえ、さらには横山やすし風の、見るからに大阪人のようなおっさん(中年の男性)が、ガニまたで歩く姿が目撃された。
洋平は、落ち込んで暗くなっていたのだが、なんだか愉快な気持ちになって、身体に血が通ったような感覚が湧いた。洋平は、関西に住まいながら、標準語を母体としていた。宝塚の閑静な住宅地に自宅があり、周りもどぎついような関西弁で話す人間は少なかった。洋平は、下町風情の関西弁を直に聞いたことは、よく考えたらなかった。
しかし、血の通って行くような温かさとは、相反して、少し、自分が場違いな場所にいるような孤立感も同時に覚えた。自分は、また殺伐とした戦場に駆り出される。長い滞在は、無用である。足早に通り過ぎようとした。
その時だった。お好み焼きの良い匂いで、洋平は足を止めた。彼は、空腹であることを自覚し、せかっく、有名なお初天神通り商店街に来たのだし、好物の豚玉でも食べて帰ろうと思った。
洋平は、匂いをたどり、あるお好み焼屋に辿り着いた。
その店の看板は、ブリキ製で白いペンキが塗られており、黒い太い文字で「こてこて」と書かれてあった。どうも店の名前らしい。
よく見たら、文字の左に大阪一と吹き出しがついていた。大阪一こてこて、洋平は、考え込んでしまった。自分の住まいには、日本一がついたラーメン屋はあったような記憶がある。東京一というのも聞き覚えがないが、大阪一というのは、割合よく聞く。現に目の前に大阪一。そして、大阪一にかかる被修飾は、「こてこて」。
緑の大判ののれんの前に突っ立ったまま、秒針が二区間ほど時を刻んだ。しかし、自分の思考回路に対し、違和感を覚えた。その違和感は、洋平に受験の失敗の原因を囁いた。そういえば、英語の試験の最後の超長文を解いた覚えがないのは、今年から廃止になったのではなく、裏面も問題があったのではないだろうか。新聞の出題問題などを見る勇気がなくて、洋平は確認すらしていない。また来年も、別の試験でうっかりしたら-、そう思うと、なんだか洋平は切なくなって、店には入らず、何事もなかったかのようにその場を去ろうとした。
すると、中から突然店の主人が出てきて、
「兄ちゃん、今空いてるから、ビールサービスしたるわ」
と言い、洋平を店の中へと招いた。洋平は、奇襲をかけられ、そのまま、店主に導かれるまま店の中へ入っていった。
平日の午前11時頃、その店には、一人のずんぐりとしたおっさんがカウンターでお好み焼きを食べていた。
そのひとつ椅子を挟んだ隣の席に、洋平は案内され、腰をおろした。
「兄ちゃん、何食べる?」
「豚玉をお願いします」
「よっしゃ、豚1.5倍の特製豚玉をこさえたるわ。兄ちゃん元気ないやろ。わし、もう三十年客商売やってるから、そういうこと分かるねん。わしのお好み焼き食べたら、嫌なことなんか全部忘れるで」
店主は、そう言うと、冷蔵庫を開けて手際よく材料の準備を始めた。
すると、隣のおっさんが声をかけてきた。
「兄ちゃん、大学生?」
洋平は、この勢いだと、自分が大学へ失敗した話をすることになり、根掘り葉ほり聞かれて、高望みした自分を嘲られるか、このおっさんの人柄次第では、励まされるか、説教じみた話になるのではないだろうか。そして、この一週間ばかり、ふとした瞬間に思い出しては、店主の思うが侭に店に通されて、豚玉ひとつ断れず、さらに隣の席のおっさんに話しかけられる隙を見せた、迂闊な自分をつくづく情けなく感じることになるのだろう、そんな風に思った。
そして、店主が自分の豚玉を準備し始め、小さいボールに材料を入れ、卵を割った瞬間に、もう逃げられない、そう全てを覚悟したのだった。彼は、常々(つねづね)、被害妄想気味だった。
「いえ、浪人生です」
「ええこっちゃなあ。急がば回れ言うし、結局近道に転ぶかも知れんで」
洋平は、案外、あかの他人に励まされるというのも、悪くないものだと、再び、温かい気持ちを取り戻した。
自宅での出来事が頭をよぎった、父親に三つ指をついて土下座をして、一年間の浪人を詫び、来年の合格を誓い、今年よりも、ワンランク上の学部を目指すことを決意表明させられたのだ。
「兄ちゃん、賢そうな顔してるわ。立派なとこめざしとるんやな。兄ちゃん未成年やったんか。それやったら、コーラにしとこ。代わりに源(げん)さんにビールサービスしたるわ」
すると、源さんは、
「大将も、ほれ」
と言い、大将にもビールを勧めた。大将は小さなグラスにビールを注いでもらい。半分より少ないほど注がれたところで、
「源さんありがとう、もう、ええで」
と源さんに頭を少し下げ、源さんに、ビールをついで、その後すぐに洋平にコーラを出した。
そして、
「兄ちゃん元気出しや」
と言って、三人で乾杯をした。
その間、大将は洋平の目の前の鉄板に、先ほどのボールに入れた材料を流し込み、豚を隙間なく生地の上に乗せた。
大将は、正義感が強そうで、仕事に誇りを持ち、他人に思いやりをもって接する好人物といったところだ。一方、源さんは、肥っていて、髪の毛は角刈りで背は低かった。目はパッチリとしていて、眉は太く、小学生の肥満児のどんくささが抜けきれておらず、人懐っこくて、お人よしそうで、そして温かかった。
洋平は、多分、ストレートで大学に合格し、挫折感を知らぬままだと、この空間の生ぬるい人情が、居心地悪く、空間に溶け込むことは一生なかったことだろうと思った。自分の生きてきた道が、植物のごとく、細胞と細胞が堅い細胞壁で区切られているように、他人との間に壁を作っていたのかも知れぬと感じた。気温と同じ温度の水の通った植物である。冷え切った人間というのは植物のごとく、どんなに学歴を積んだところで、動物より下等な生き物にあたるということになるのか。と、大将と源さんが、阪神の話題で盛り上がっている間、洋平は会話には混じらず、思考が本道とはずれ、脇道へと迷い込み、妙な結論に至ってしまい、虚しい気持ちになった。彼は、無駄な思考が多い人間なのだ。しかし、自分自身では、司馬遼太郎をこよなく愛し、現実主義者であると自負し、この年頃の勉学に勤しみ結果を出し、挫折知らずの自信過剰に陥った鼻持ちならない少年達とは、一線を引き、年上を敬い、寡黙で、あからさまな善良さは表に出さず、陰徳を美徳として実践するよう意識して心がけ、その実践により、自分自身を特別な人間だと悦に入るようなところがあった。
洋平の妄想をよそに、大将は、手際よく豚玉を仕上げて、
「兄ちゃん、特製マヨネーズかけるけで、このマヨネーズ、言うとくけど、オリジナルやからな」
そして、ものの五分ほどで、コーラを飲みほして、口が焼けそうなほど、熱い豚玉を平らげた。
大将と源さんは、阪神の選手の話や、源さんの奥さんが家事をしないで韓国のアイドルばかり追い回している話などで、洋平をおおいに笑わせた。涙腺が緩むのと同時に、心が弛緩して行くのを感じた。そうしている間にも、店内は徐々に客が入り出していた。顔なじみの客も多いようで、大将や源さんと冗談混じりの挨拶を交わしていた。洋平は、源さんに頭を下げて、
「僕は、もう帰ります」
と声を掛けて、カウンターの端にあるレジへ向かった。洋平がレジの前で大将の手が空くのを待っていると、大将が、
「ちょっと、待ってな」
と、厨房から慌しく(あわただしく)声を張った。洋平はレジ横の壁に、文楽座のポスターが貼られてあるのに気づき、ポスターを眺めていた。曽根崎心中の公演が行われているようだった。
大将が、ようやくレジのあるカウンターまで出てきた。
「曽根崎ってそういえば、大阪が舞台なのか」
洋平は、独り言のようにつぶやいた。
「そうやで、お初天神が舞台やで」
「えっ、今日、参拝した神社が舞台だったのか」
洋平は少し驚いた。歴史的な名作は、いつも手の届かない異次元の世界のもののような気がしていたから、意外と身近に歴史が密着していることが不思議に感じたのだ。
「けったいな兄ちゃんやな。何しに行ってん?曽根崎心中の徳兵衛とお初のブロンズ像見んかったんか?」
その時、大将は思うこと有り、唐突に
「木曜の午後の公演見に行ってみ。どうせ、暇持て余してるやろ。その後、この店来(き)いや、わしのおごりやさかい。いやなに、かしこ(賢いの意味)の若者の文楽座の曽根崎心中の感想が聞きたいだけやで」
洋平は、少し怪訝(けげん)には思ったが、確かに春休みで、予備校に通うまでしばしの休息であった。
「はい、これも何かの縁ですので、文楽座を鑑賞してきます」
「木曜やで、木曜の午後の三時からやで、その回が絶対にええから。変な下心とかないさかい。わし兄ちゃんのことなんか気に入ったから、常連さんになってほしいちゅうのは確かにあるかも知れんけど」
大将は、しつこく念を押した。下心はないとはいうものの、大将のこの行為には、密かな思惑があった。大将は、この店の馴染み客の初音を娘のように思い入れており、この若者に初音を引き合わせ、願わくば、この若者が初音を幸せにしてくれるのでは、ないかと思っていたのだ。
一方で、育ちのよさそうな、青年に相手にもされず、あしらわれる可能性に一抹の不安を感じたが、
「ここは、恋愛の神様があっちこっちで、恋人を見守っとるお初天神や、大丈夫やろ」
そう、不安を払拭し、洋平を店の外まで見送って、視界から消えるまで、目で背中を追っていた。
大将は、はっと我に返り、客を待たせていることを思い出し、急いで仕事に戻った。