「ベターハーフを探して」

<第3話> 運命の扉
突然、休日に会いたいと言われて身を硬くしていた杏奈は、遼が何を言い出すのか分からなかった。
「いま夏に向けての新メニューを作ってて。結構いいのができたんですよ。よかったら食べてみてもらえませんか? 迷惑かもしれないけど、プロの意見を聞いてみたいんです」
もしかしたらデートの申し込みかもしれないと期待していた杏奈は、拍子抜けして返事が遅れてしまった。
「あ、あのー」
おずおずと杏奈の様子をうかがう遼を見てはっと我に返った杏奈は、いつもの笑顔を浮かべてゆったりと答えた。
「もちろん、私でいいなら試食させてください。何時に伺ったらいいですか?」
ほっとした様子の遼の顔を眺めながら、杏奈は過剰な期待をしていた自分を恥じ、すっかりライターの顔に戻っていた。
日曜の昼下がり、ランチ営業が終わり、静けさを取り戻しているであろう『じどり家』の前。杏奈が名前を呼ばれて振り返ると、そこには美崎が立っていた。遼は大学の先輩である美崎にも声をかけていたのだ。同窓会の日のかしこまった服装とは違い、今日の美崎はTシャツの上にダークグレーのカーディガンをさらりと羽織り、カジュアルにまとめている。美崎の知的な雰囲気を強調する着こなしに見とれてしまった杏奈は、相手に悟られまいと目をそらした。
「美崎さん、すみません。杏奈さんも、せっかくの休日にありがとうございます」
杏奈と美崎が店に入ると、遼がせわしない様子で厨房の中から顔を出した。カウンターに置かれた紙には、料理名が書かれている。
「へー、すごいな。丹波産赤地鶏と夏野菜のハーブマリネ シャンパンビネガー風味、青森産若鶏のパン粉焼き 刻み夏野菜入り特製スパイシーソース、それから、日向地鶏のチーズフリット 朝採れバジルのジェノバソース、か」
同じように紙を見ていた美崎が読み上げると、遼が現れて説明を始めた。
「今日食べていただきたいのは、夏の新メニュー候補3品です。夏を意識してスパイスやハーブも効かせてますし、色も鮮やかに仕上げてます。どうですかね」
杏奈は、まずはハーブマリネを口に運ぶ。ズッキーニやナス、いんげんなどの夏野菜は見た目も楽しく、シャンパンビネガーの酸味も心地いい。若鶏のパン粉焼きも、カレー粉主体で黒胡椒がアクセントを添え、ほどよい刺激が夏を思わせる。そして鶏のチーズフリットは、にんにくを強めに効かせたジェノバソースの風味が鶏とよく合っており、杏奈はいい出来だと心から思っていた。
――けれど、何かが足りない――
杏奈がそう思ったとき、美崎がふとつぶやいた。
「このハーブマリネ、酸の効いた白ワインが飲みたくなるなあ」
美崎の言葉を聞いた杏奈は、あるアイデアを思いついた。
「これ、三品をセットにしてみたらどうですか? で、一品ずつ順番に料理を出しながら、それぞれに合うグラスワインも出すんです。たとえば、最初のマリネにはビネガーの酸となじむシャープな白ワイン、パン粉焼きにはソースと引き合うスパイシーな赤ワイン、チーズフリットにはまろやかな赤ワイン、みたいなかんじで。そうそう。料理とワインの相性の良さを味わうセットにしたら、商店街のグルメマップに使う“恋に効くメニュー”にも応用できるかも」
杏奈の提案を聞き、遼の顔がぱっと明るくなる。
「夏に出したいなと思ってる、ラングドックの赤ワインがあるんです。シラー主体だから、スパイシーソースに合うと思います」
「フリットは、メルローと合わせたらよさそうだし」
「メニュー名は、“夏のマリアージュセット”みたいなかんじ? いや、ちょっとひねりがほしいとこかな」
「でも、メールマガジンの文章なんて、むずかしくて書けないですよ。かといって、プロのライターさんにお願いするような予算は正直ないし」
「最初は気軽に書いてみたらどうですか。私、よかったら無償で添削しますし」
杏奈の言葉を聞いて、遼は何かを思いついたような表情をして、厨房へと向かった。戻ってきたとき、遼は透き通るような白い肌に、ほんのりと色づいたピンク色の頬が愛らしい女の子を連れていた。
「桃ちゃんっていいます。いま大学に通ってて、バイトでオレのアシスタントみたいなことしてくれてるんですけど、文章書くのもうまいんですよ。桃ちゃんに頼んでみようかなと思うんですけど、どうですかね?」
――名は体を表すっていうけど、ほんとその通り。まるで桃のように愛らしい桃ちゃんをみて、美崎くんはどう思っているんだろう――
思わず杏奈は、ちらりと美崎の様子を盗み見る。
直樹の口から美崎の名前が出て、杏奈はぎくりとして直樹を見る。『じどり家』での試食を終えた杏奈は直樹の実家へ立ち寄り、帰りに駅まで送ってもらっているところだった。高校時代から10年もの間、直樹とつきあっていた杏奈は、直樹の家族からも温かく受け入れられていて、1か月に一度は直樹の家に行き、両親や直樹の妹と一緒に夕飯を食べるのが習慣になっている。
直樹の家族と過ごす時間は、杏奈にとって心落ち着くひとときだった。ずっと専業主婦だった直樹の母親は、主婦の鑑のような女性だ。いつ行っても、家中そうじが行き届いていて、大層居心地がいい。作る料理は、根菜の田舎煮やふろふき大根といった素朴な家庭料理が中心だったが、丁寧に切りそろえられた根菜や、きちんと面取りされた大根を見るたびに、杏奈は家族への愛と台所を守る主婦のプロ意識とを感じ、温かい気持ちになる。資材メーカーで部長を務める直樹の父親も、口数こそ少ないものの、杏奈には事あるごとにやさしい言葉をかけてくれる。銀行の窓口で働いている直樹の妹は杏奈のことを姉のように慕っていて、杏奈の書いた雑誌の記事は、すべて目を通してくれているほどだ。
――直樹と結婚したら、この人たちと家族になる。私はきっと幸せで穏やかな生活を送れるだろう――
杏奈は、ふと直樹との結婚を思った。ここ数年は、ずっと直樹からのプロポーズを心待ちにしていのだ。
――直樹はきっと、私の仕事の成功を心から祈る理解ある夫となり、子煩悩な父親になるだろう。けれど――
杏奈は、直樹が畑違いの経理の仕事に異動になること、そして、そのことを悔しがる様子のないことに、依然として苛立ちを感じていた。それに、今日会った美崎の姿と、一緒に過ごした楽しい時間が、杏奈の心から離れなかった。
――ベターハーフは、直樹じゃないのかもしれない。もう一度、考え直してみてもいいのかも――
杏奈がそんなことを考えていたとき、直樹が急に言い出した。
「結婚、せえへんか。オレたち」
あまりの突然のプロポーズに、杏奈は呆けた顔をしてしまった。直樹は頭をかきながら、照れくさそうに続ける。
「オレたちもいい歳になってきたし、親も杏奈のこと気に入ってるし。オレたち、いい夫婦になれると思う。オレと結婚してほしい。いや、結婚してください」
ずっと待っていた言葉だった。けれど、その言葉の必要性を感じなくなった途端に、突然投げかけられた言葉でもあった。杏奈は言葉を選びながら、ぽつりぽつりと直樹に告げる。
直樹は驚いたようだった。
「杏奈の気持ちも分からないことはない。一生を左右する決断やし。ただ正直、ショックやな。杏奈もオレと同じ気持ちやと思ってたから。待たせすぎてたって思ってたぐらいやったから」
直樹は一気にこう言って、地面の一点を見つめた。しばらく経ってさっと顔を上げた直樹は、杏奈を正面から見据えてこう告げた。
「オレたち、終わりにしよっか」
余りに急な展開に、杏奈は言葉も出ない。二人のそばを行き交う車の音が、杏奈には異様に大きく聞こえていた。
【つづく】


