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連載小説 恋はお初天神から

「ベターハーフを探して」

作者:山内早月(やまうち さつき)

<第4話> 南仏ワインが運ぶ恋

ビルの明かりが一つ、また一つと消えていく。夜の風景が深い闇の底に沈んでいくのを、杏奈はただ茫然と眺めつづけていた。直樹の実家に行った帰り道に受けた、突然のプロポーズ。そして、まったく想像していなかった別れ。杏奈は放心状態で自宅マンションに戻り、窓の外の夜景をもう何時間も眺めつづけていた。
「結婚に対して戸惑いがあるなら、これからも同じなんと違うかな。だって、十分お互いのこと分かってると思うし。オレも杏奈の人生に対して、責任もたれへんようなことはしたくないし。変に引っ張るなら、いまが潮時やと思う。別れよう」

直樹はそう言った。10年間つづいた二人の時間は、それで終わりだった。

――ずっと、当たり前のように直樹がいた。うれしいことも愚痴も夢も、すべて直樹に話してきた。でもそんな当たり前の日々は、もう明日からはこない――

杏奈は、頬を流れつづけている涙をぬぐう。そして、そのぬれた手で、左手の薬指にはめている指輪にそっと触れた。大学1年生の誕生日に直樹が買ってくれたその指輪には、小さなダイアモンドがついている。もう10年近くその位置に安住し、まるで杏奈の体の一部のようになっていた。

二人の時間の先には結婚があることを信じて疑わなかった杏奈は、そのおもちゃのような指輪をはずし、二人の永遠の約束となる指輪をはめるときを心待ちにしていた。

――ついに「そのとき」が来たのに、自らその機会に背を向けてしまった――

また一つビルの明かりが消えたのを見て、杏奈は一筋の涙を流した。

そのとき、携帯電話がメールの着信を伝えた。仕事柄、杏奈はメールのチェックが欠かせない。だから、パソコンに送信されたメールが携帯電話でも確認できるように設定していた。遅い時間にメールがくることは日常茶飯事だったけれど、日曜の深夜3時にメールを送ってくる相手は思い当たらない。誰だろうと首をかしげながら杏奈がメールボックスを開けると、遼からのメールだった。

件名に「メルマガ」とだけ書かれているのを見て、杏奈は思わずくすりと笑う。ストレートでいかにも遼らしい件名だと思い、杏奈は遼のさわやかな顔を思い浮かべた。

――今日はありがとうございました。営業が終わってから、早速桃ちゃんとメルマガのこと話し合いました。今度原稿を送りますのでよろしくお願いします。それと、火曜のグルメマップの打ち合わせには、美崎さんにも来てもらうことになりました――

美崎の名前を見て、杏奈はまた直樹のことを考える。美崎との再会に心を動かしたことを、杏奈は後ろめたく思っていた。直樹の口から美崎の名前が出たときも、そんな自分の気持ちを見透かされているのではないかと思ったほどだ。

――でも、私が誰にどんな思いを抱こうが、もう直樹には関係ない――

そう思った杏奈の目に、また涙がにじむ。そんなとき、追伸が書かれているのに気づき、杏奈は読み進めた。

――PS.杏奈さん、オレの初恋の人に似てるんで、緊張します――

思わぬ打ち明け話に、杏奈は張りつめていた気持ちがゆるむのを感じる。

「私のベターハーフは、直樹じゃなかったのかしれない」

半ば言い聞かせるようにして、杏奈は大きく深呼吸をした。

打ち合わせの火曜日、杏奈はこの日も露天神社に立ち寄ろうとしていた。もちろん、ベターハーフと出会えるように願うためだ。穏やかな空気が流れる境内には、願掛けにきた様子の若い女性や、ベンチに腰かけてゆったりと境内の様子を眺めている老人、そして、ここを通り道にしているらしく、足早に通りすぎるビジネスマンなど、さまざまな姿がある。

――あれ、桃ちゃん?――

そのなかに、遼の店で働く桃の姿があることに気づいた杏奈は、露天神社がこの街に暮らす人たちの心や生活に根付いていることを感じ、温かい気持ちに包まれた。

この日『じどり家』には、遼と美崎、舞衣、そして杏奈が顔をそろえた。春らしいオフホワイトのワンピースをまとった舞衣が、早速杏奈に話しかける。
「杏奈ちゃんが今日はいてるパンツ、すっごくラインがきれい。あれ、でもちょっと疲れてる? 目の下にクマができてるよ」

2日前に一晩中泣きつづけた杏奈の目には、たしかにクマができている。もちろん杏奈は十も承知で、昨日はエステサロンに駆け込み、夜も十分に手をかけてケアをしていた。

高校時代から杏奈にライバル意識を抱きつづけてきた舞衣は、杏奈の肌の不調さえ見逃さない。親しげに話しかけておいて、杏奈の手入れの行き届いていないところを、さりげなく周囲にアピールする。女性としての意識が低いと指摘されたような気になった杏奈は、思わず舞衣をにらみつけそうになる。

しかしそのとき、美崎が自分を心配そうに見ているのを杏奈は知った。今回の商店街のグルメマップには、美崎が勤める会社K飲料が、スポンサーを務めることになっている。今日はいわばオブザーバーとして、美崎は参加しているのだった。

これ以上、女どうしの水面下での争いをつづけるべきではないと判断した杏奈は、表情をやわらげる。
「締切間近の原稿があって、きのうほぼ徹夜だったから。そっか、クマができてるんだったら、帰りにエステに寄って帰ろうかな」
肌の手入れには時間もお金も惜しまない女性だといわんばかりに、杏奈は舞衣にゆったりとほほえんだ。

打ち合わせの結果、舞衣が同窓会の晩に提案した案が採用され、各店で「恋に効くメニュー」を考えることになった。今回のグルメマップ企画に参加するのは30店舗。おおよその方向性やイメージ、スケジュールなどが話し合われ、その日は終了となった。

舞衣はこれから待ち合わせがあるからと言い残して帰り、美崎も慌ただしく会社へと戻って行く。二人を見送って帰ろうとした杏奈は、遼に呼び止められ、足を止めた。
「今日、夜の営業にはオレ、出なくていいんです。もしよかったら、軽く飲みに行きません?」

杏奈には、本当はその日のうちに仕上げておきたい原稿があった。が、翌日の午前中にもう少し手を入れたら大丈夫だろうと杏奈は即座に計算した。一人で夕食をとるのがいやだったし、何より、もう少し遼のことを知りたかったのだ。

遼が杏奈を伴って向かった先は、商店街のなかにある南仏バルだった。
「ここ、よく来るんです。南仏のラングドックとかルーションのワイン、これだけそろってたらすごいでしょ。ワインは、気軽に楽しむのがいいっすよね。開ける、注ぐ、飲む、うまい! みたいな。ここはどのボトル頼んでも2千円均一!あ、グラスワインも500円均一!」

遼の無邪気な物言いがおかしくて、思わず杏奈は噴き出してしまった。一度笑うと止まらなくなり、杏奈は次第に体をゆすって笑い出した。ようやく笑いがおさまった杏奈に、遼が言う。
「杏奈さん、笑ってたほうがいいっすよ」

杏奈がはっとして遼を見据えると、そこには大人びた表情の遼がいた。遼が食事に誘ってくれたのは自分を心配してのことだったのだと杏奈は気づく。その優しさと行動力に杏奈の心はざわつき、先日のメールを思い出す。
――PS. 杏奈さん、オレの初恋の人に似てるんで、緊張します――

それから二人は、遼が好きだというエスカルゴのオーブン焼きやニース風サラダなどを食べながら、南仏のワインを存分に楽しんだ。

遼は楽しげに自分のことを話し、杏奈はうなずいたり、時折ほほえんだりしながら、それを聞いた。『じどり家』のオーナーは遼の父親で、いまでは遼が料理をすべて任されていること、遼の夢は独自のブランド鶏をつくるということ、それから、桜餅には目がないということ。遼の話はとめどなく続く。

遼が自分に好意をもち始めていることを、杏奈は意識せずにはいられなかった。年下の男性からのストレートな感情に戸惑いを感じるものの、うれしくないわけがない。二人で空にした3本のワインボトルをぼんやりと眺めながら、何かが始まりかけているのを杏奈は静かに感じていた。

杏奈は、翌日の仕込みのために店に戻った遼と別れ、足どり軽く夜の街を歩いていた。堀江の自宅マンションまでは、タクシーに乗れば15分ほどだ。だが、なかなかタクシーが見つからない。いつもならいら立たしく思う杏奈だったが、この日はそんな時間さえ楽しかった。

――年下のベターハーフ。そんなの、想像したことなかったけれど。でも、そういう運命なのかも――

そのとき、夜の街を歩く人の群れの中に、見慣れた後姿を見つけた。直樹だった。そして、直樹と寄り添うようにして歩いている女性を見て、杏奈は思わず時間が止まったように感じた。
――直樹、どうして? なんで、そんなこと――

その姿を、数時間前まで一緒にいたその姿を、そしてオフホワイトのワンピースを、杏奈は見間違うわけがなかった。
――なんで、直樹と舞衣が――
「えー、一磨くんが?」

夜の空気を切り裂くように、舞衣の声が杏奈のもとに届く。二人は、先日の同窓会で再会した、直樹の親友の話をしている。茫然と立ち尽くしてしまった杏奈は、肩からバッグがずり落ちるのを感じながら、それをどうすることもできない。そんな杏奈のそばを、帰路を急ぐ人々が足早に通りすぎた。

【つづく】