お初天神通り商店街の昔と今

お初天神通り商店街の由来は、やはり露天神社(お初天神)と共にあります。終戦後直後からお初天神の境内に飲食店が集まり始め、30店舗ほどのお初天神食道街として栄えました。当時あったお店、例えばしゅうまいの阿み彦や小料理の扇屋は現在でも近くに場所を移して昔の味を守りながら営業中です。

お初天神の本殿は戦災で消失したが、商店街の西側の建物は奇蹟的にも何軒か焼け残った。当時の様子を以前の商店街会長高橋さんは「延焼を逃れるため、皆でバケツリレーをやったもんや」と当時を振り返えります。

焼け残った商店街には、今ではオリジナルお好み焼で有名なゆかりや元祖豚平焼きの本とん平など、今でも名を残すお店ができはじめました。昭和30年頃からは低いビルも建ち、商店街としての形が整ったのです。

昭和40年代は梅田界隈にも映画館などが建つようになりました。同時に商店街の入り口にお笑いの殿堂うめだグランド花月もオープン(当初は洋画封切映画館として昭和21年オープン)し、商店街は神社への参拝客や笑いを求める人々で多いに賑わいます。
この光景は現在でも変わることはありません。

昭和40年代中頃には大阪万博や南北に走る新御堂筋、駅前には大阪駅前ビルが完成し、ますます梅田界隈に人々が多く集まりはじめました。

現在の商店街は、お初神社への参拝客以外に、梅田界隈で働くビジネスマンやOLの食事処として昼夜賑わっています。
今では大阪の北・梅田界隈で最も親しみやすい商店街としてその歴史と共に根づいております。

ちなみに商店街の名前は当初「すずらん通り」でしたが、その後「曽根崎センター街」となり、後に現在の「曽根崎お初天神通り商店街」となりました。

やはりお初天神と商店街は切っても切れない深い仲なのです。

お初天神は近松門左衛門「曽根崎心中」ゆかりの地

「お初天神」の名で広く知られる当神社、は正式名称を露 天神社(つゆのてんじんしゃ)といいます。元禄16年(1703年)に当神社の境内で実際にあった心中事件を題材に、近松門左衛門が人形浄瑠璃「曽根崎心中」を書きました。以後、そのヒロインの名前「お初」にちなんで「お初天神」と呼ばれるようになったのです。

誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。
取伝へ貴賤群集の回向の種。
未来成仏疑ひなき恋の。
手本となりにけり。

「曽根崎心中」は、元禄16年4月7日に起こった、堂島新地天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」が当神社の「天神の森」にて情死した事件をもとに、近松門左衛門が劇化したものです。この作品は当時の人々の間で大評判となり、当神社にも参脂回向の老若男女が大勢押しかけたといわれています。

広く民衆の涙を誘うこの作品はその後も繰返し上演され、今日でも回向とともに、恋の成就を願う多くの人々が訪れています。なお、昭和47年7月、曽根崎中1丁目の有志によって、恋に殉じた二人を慰霊するための「曽根崎心中 お初 徳兵衛 ゆかりの地」という石碑が建立されました。

二人の300回忌の後、氏子の一人が「お初さんのために」と100万円の寄付がありました。それをきっかけに、地元の商店街などから寄付金が寄せられ、平成16年4月にブロンズ像が製作されました。